もしも松本人志が芸人の道を選ばなかったら
夕飯。
アボカド。アジフライ。レトルトカレー(カレー曜日・辛口)。
めちゃくちゃどうでもいい話だけど、自分はカレー曜日は日曜日にしか食べない。個人的カレー曜日は日曜日です。
食べる度に「うまいな~」と思う。エスビー食品の企業努力の結晶ですよこれは。
あとカレーマルシェもすこぶるうまい。ハウス食品もあっぱれ。
テレビの感想。
『激レアさんを連れてきた。』、作家の赤松利市氏が「62歳で路上生活しながら小説を書きめっちゃデカい賞を獲って作家デビューした人」として登場した回。
いや~見ていて実にシビれましたねこれは。
とてつもない文才を保有し、それを要所要所で発揮しながらも、本人は己の才能に一向に気付かない。
「頭の中にどんどん文章が浮かんでくる」
「寝てる時でも夢の中にパソコン画面が出てきて文字を打つ。朝起きて最初の仕事は夢で見た文字を文字起こしすること」
「脳内で執筆した文章を原稿用紙換算で20枚ストックできる」
というエピソードからも分かる通り、書くためにこの世に生まれてきたような人なのに、還暦を過ぎてからようやく己の中に眠る鉱脈に気付く。
天才型の人は、その人自身にとっては自分の持つ能力が当たり前過ぎてそれを特別なものとは思わないのかも知れない。
とは言え、かなり遠回りをすることにはなったが赤松氏は自らの才能に気付いた。あとはもう命が尽きるまでただひたすら発揮するのみである。
ここでふと立ち止まった時に私が思うのは、それこそ「とてつもない才能を持ちながらもそれに全く気付かないまま一生を終える人もいるだろう」ということだ。
これは極端な仮定の話だけど、それはたとえば「もしも松本人志が芸人の道を選ばなかったら?」という問いだ。
実際の松ちゃん(急にくだけた呼び方)は早い内から自らの才能に確信を持っていたから芸人として華々しく活躍しているけれど、もしそこに気付く力を赤松氏以上に持っていないとしたら。芸人以外の職業につく可能性だって大いにあったことだろう。
パラレルワールドの松本人志はため息をつく。テレビで笑いを見ていても、何故かオレの方が面白いことを思いつく(ような気がする)。でもまぁそれはきっと思い過ごしだろう。芸人なんていう不安定な職業、はなっから選ぶわけはない。給料には少し不満はあるけれど、とりあえず今までサラリーマンをやってきてよかった。自分の人生、けっこう満足だ…。
その様子を地上100メートルくらいから俯瞰で見ている神的存在はこう思う。「いやアンタもし芸人の道を選んでいたら爆発的に売れて死ぬまで使いきれないくらいに大金稼ぐよ?」と。
これはこれで凄味がある。もっともその凄味に気付くのはその神的存在のみで、その思いは誰にも共有されないのであるが…。
今までは他人でシミュレーションしてきたが、そうなると必然的にその問いは「じゃあ自分はどうなんだ?」と我が身に刺さってくるのである。
おそらく無いし、一度もやったことはないけどもしかしたら自分には「ボブスレー」の才能が眠っているのかもしれない。一度でもボブスレー業界に足を踏み込んだら死ぬほど成功しまくって田園調布にボブスレー御殿をブッ建てることができるのかもしれない。要するにそういうことだ。
才能とは実に厄介だ。保有するだけでそれを「使える」ものと認識することが無ければそれはもう「無い」のと同然なのだ。
「ダメでもともと」という言葉があるが、実にいい言葉だと思う。
「いや、もしかしたらこれイケるんじゃね…?」と1%でも思って実現可能な範囲内であればとりあえずやってみることだ。そしてあんまりうまいこといかなかったとしても「ダメでもともと」なのだから。
そしていろいろ試した結果、特にブチ当たるものが無かったとしても「まーとりあえず全部試してみたし自分的には納得だな!」と寿命を迎える頃にはこの世に未練を残さずに大往生を遂げることができるであろう。
ダメもとの精神。その価値を我々は再考すべきである。あと松ちゃんが芸人で本当によかった。
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