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夕映え太郎、ケイの解脱論(抜粋4)

                    ( LuidmilaKot 様 画像提供)
皆様こんにちは。お元気ですか?
怪しげな台風の通過が気になりますが、
安全な暮らしが保たれるよう祈ります。

さて、引き続き夢幻小説『音庭に咲く蝉々』の断片を
ご紹介していこうと思います。どうぞよろしく!


GDJ 様 画像提供

 中心市街地を北東に10分ほど歩いた界隈に、ひっそりと古樹群が息づく静かな緑地がある。この花森公園と呼ばれる区域に、夕暮れ時になると決まって姿を現わす風変わりな老人がいた。
 無為自然の白髪、髭面の仙人じみた風貌。住所不定、職業不明、年齢不詳、小さなメモ帳を片手にふらりとやってくる。僕らは勝手に彼のことを〈夕映え太郎〉と命名していたが、本名が明かされることはなかった。それでも、さすがに本人を目の前にして夕映え太郎と呼ぶのは気が退けたのだろう、皆、その老人を〈先生〉と呼んでいた。
 
 放課後、学校を飛び出してから中心街へ流れてくる途中、花森公園に自転車を止めて夕映え太郎と雑談するのが、僕らの楽しみのひとつだった。いかにも謎めいた夕映え太郎の存在が、僕らの好奇心をくすぐった。
 彼は常にゆったりとしたインド風の服装を好み、放心したような眼で公園を見渡しながら、心に浮かんだ言葉をメモ帳に刻みつけていた。その生き様には、官人や教職員の世界とはかけ離れた、摩訶不思議な魅力が満ちあふれていた。
 一見、浮浪者のようで、じつは吟遊詩人か哲学者じみたところがあり、俗世間の些末的ルールを超越した、どこか神仙の域に棲む超人のごとき威風が感じられる。何か訳がありそうな人物に思われたが、誰ひとりその正体を知るものはいなかった。
 
 
 ケイは黙って夕映え太郎の前を横切り、視線を合わせることなく、静かに通り過ぎた。考えてみれば、ケイと夕映え太郎はほとんど会話を交わしたことがなかった。お互いに距離を置いて、まるで意識的に対話の機会を避けているかのようにも見えた。あるいは人に言えない深い事情や秘密でも共有しているのか・・・。
 その様子がいかにも謎めいた印象を与えていたが、そのことには誰も触れなかった。何か心の波長が合わない部分でもあるのだろうと想像して、僕も特に深い関心は持たなかった。
 黒波に揺れる海草のように、ケイはゆらりと歩き出した。夏でも冬でも四季を通して黒い綿のマントを羽織っている彼は、占い師か魔術師か放浪の吟遊詩人に見えた。ケイが無言で歩き出すと、それにつられてメンバー全員が後を追った。
 公園を去ろうとするとき、夕映え太郎が即興の句を詠んだ。
 
「 我々は自分の影を見てそれを虚像と認識するが、
  自分の肉体を見て虚体であるとは思わない 」
 
「虚体…? 虚体って何?」僕は振り向きながら尋ねた。
「照見五蘊皆空、無眼耳鼻舌身意、無色聲香味觸法。自己の肉体のみならず外界の全ての現象もまた空・・・、ということかな」
「クウ? 空…」
「在るということは無いということと同じなんだよ」
「在るということは無いということ…? 何だか頭が変になる。また来るよ、先生!」と言い捨てて大きく手を振り、僕は路地裏へ消えようとする仲間たちの後ろ姿を追った。
 
・・・表通りは面白くない、裏道に真理があるんだ・・・ ケイが呟く。
 

darksouls1 様 画像提供


 どこの国のどんな町にも、近代化の波に洗われることなく、とり残されたまま不思議な風情を保つ一郭がある。急速なモータリゼーションや都市再開発から見捨てられた小路に、酒と小便と水垢の匂いが染み付き、古い葡萄酒の澱に似た時間の老廃物が沈殿している一郭・・・。
 不意に、野良猫が小路を横切り、石塀に上がって鋭い視線を投げ返す。割れて傾いた看板、破れたストリップのポスター。干涸びた雨蛙の亡骸。コンクリートの継ぎ目に吹き溜まった汚物を餌に生きる苔の忍耐。U字溝の黒い水に潜む名もない虫の気配。乾きの遅い青白い洗濯物。廃屋の中で孤独に響く古い柱時計の余韻。わずか数分間歩いただけなのに、数百年の時が経過したように感じる。
  
 原始的な本能に任せて、都市の迷路を突き進み、やがて洞窟を捜し当てる。セキュリティーシステムのない幽霊屋敷のような雑居ビルに、息を止めて裏口から忍び込む。内部を食い破って階段を駆け上がり、見晴らしの良い屋上へ出た。
 
 五人の髪を梳る一陣のビル風・・・。
 
 360度の視界は思考を自由にする。人間界がひとつの巨大な巣窟に見える。自分たちの都合で利便性だけを追及した結果がこれだ。過去にどれだけの天然資源を食い潰してきたことか。高度経済成長の残骸。すでに出来上がったシステムに順応できるか否か、それだけで個人の存在価値が決定されてしまう地獄絵巻。
 合理性、細分化、数値化。原因不明の洪水のように、衣服と金と肉と酒と人と自動車と金属と書類が押し流されていく。銀行を出入りしている人々の姿は、結局、屍肉を貪る奇獣か蜜に群がる蟻のようにしか見えない。その光景は中世の謎めいた風刺画のようにさえ思われた。
 
 
「結局、これらはすべて… 夢だ」ケイは全てを洞察し終えたような、あるいは全く何も見ていないような、不思議な眼差しを眼下の風景に投げ下ろした。
「何が夢なの?」何か嫌な予感がして、僕が尋ねた。
「すべてが夢だ、この手摺の下の風景すべてが幻だ」ビル風が吹き起こって、黒マントが揺れる。この世に存在しない幻の酒を呷るような調子で、ケイは持論を続けた。
  
「輪廻の根本的原因は無明だ。現象界は心の投影にすぎない。それを知れば、全存在が空であることも判るはずだ。判るはずなんだ」誰とも目を合わせることなく、ケイは籠った声で独り言を呟いた。
 
 ケイは一秒にも満たない微笑を見せると、指と指のあいだに残っていた空蝉の破片を払い落とし、無言のまま、狭い非常階段を下りて行った。
 鉛色の雲が層を成しはじめていた。

                       つづく

✨『音庭に咲く蝉々』 菊地夏林人



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