日本史人物伝 No.258~261
No.258 柴野栗山
1736(元文元)~1807(文化4)12月1日
読み:しばの・りつざん
姓:柴野(しばの)
諱(いみな):邦彦(くにひこ)
通称:不明
字(あざな):彦輔(げんほ)
号:栗山(りつざん)
性別:男
出身地:讃岐国(さぬき・のくに:今の香川県)三木郡牟礼村
江戸中期の儒学者。寛政の三博士の一人
No.259 柴野軌逵
1736(元文元)以前~?
読み:しばの・きき
姓:柴野(しばの)
諱:不明
通称:不明
号:軌逵(きき)
性別:男
出身地:讃岐国(さぬき・のくに:今の香川県)三木郡牟礼村
柴野栗山の父。詳細不明。
No.260 柴野於澤
1736(元文元)以前~?
読み:しばの・おさわ
姓:?→柴野(しばの)
諱:於澤(おさわ)
性別:女
出身地:不明。讃岐国?
柴野栗山の母。詳細不明。
No.261 中村文輔
生没年不詳
読み:なかむら・ぶんすけ
姓:中村(なかむら)
諱:不明
通称:文輔(ぶんすけ)
性別:男
出身地:讃岐国(さぬき・のくに:今の香川県)三木郡牟礼村
柴野栗山の学友。共に江戸に赴いた。
柴野栗山の生涯
1736(元文元)讃岐国三木郡牟礼村(現:香川県高松市牟礼町牟礼)で誕生。
父親の名は、柴野軌逵(しばの・きき)、母親の名は柴野於澤(しばの・おさわ)である。
1748(寛延元)高松藩の儒学者、後藤芝山(ごとう・しざん)の元へ通い、儒学を習う。
1753(宝暦3)中村文輔(なかむら・ぶんすけ)と共に、江戸に赴き湯島聖堂で学問を学んだ。
湯島聖堂の学習を終えた柴野は、1765(明和2)高橋宗直(たかはし・むねなお)から国学を中心に学問を学び、1767(明和4)徳島藩に儒学者として仕えるようになった。
1768(明和5)には徳島藩主・蜂須賀重喜(はちすけ・しげよし)と共に江戸に再度赴く事となる。
江戸に着いた後、1776(安永5)徳島藩当主の侍読に就任する。
1787(天明7)には、江戸幕府老中の松平定信(まつだいら・さだのぶ)から呼び出され、幕府に仕えるように勧められた。
以後幕府に仕え、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり、1790(寛政2)湯島聖堂の最高責任者となった。
1807(文化4)には、「玄武洞(げんぶどう)」を命名している。
同年、12月1日に死去した。
1911(明治44)従四位を追贈されている。