見出し画像

江戸の役所から その1

大きな改革や改変を実現しようとするとき、強い抵抗と摩擦が生まれるのは、いつの時代も同じである。

改革を断行しようとする大臣と、それに抗う官僚という図式は、よく見られる光景であるが、この図式は、江戸時代にも存在した。

頻繁に交替する大臣と長い歴史を持つ役所との摩擦は、伝統のやり取りだったのである。

江戸幕府には、江戸の市政を担当する役所として、町奉行が置かれていた。

南北各一名の奉行と、その下に、南北合わせて与力(よりき)50人、同心(どうしん)280人ほどの吏員が配属されていた。

町奉行は、旗本が就任できる役職の中で、最も上級の重職である。

町奉行の在任期間を見ると、最も長い人で21年。

逆に、ほんの数年で交替した奉行もいる。

名奉行の誉れ高い「遠山の金さん」こと、遠山景元(とおやま・かげもと)は、1840年(天保11)に北町奉行に就任した。

それ以前の「金さん」は、小納戸役(こなんどやく)を振り出しに、小納戸頭取(こなんどとうどり)、小普請奉行(こぶしんぶぎょう)、作事奉行(さくじぶぎょう)、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)と、出世階段を上っている。

このように、町奉行になるまでは、いくつもの役職を渡り歩いていた。

定められた任期はなく、いろいろな事情によって、長短はあるものの、現在の各省庁の大臣たちより、概ね在任期間が長い。

しかし、次々と交替していく職務であることに違いはない。

一方、与力は世襲制である。

ただ、一部の与力と同心は、譜代(ふだい)ではなく、一代限りの召し抱えという、少し危うい立場にあった。

この状況に甘んじる訳にはいかなかった者の知恵なのか、幕府の指示なのか、はっきりとしたことは分からないが、こういった人々のため、ある救済措置が取られていく。

本人が在職中に、息子を見習いとして役所に出し、自身が辞職したあと、子供に継がせるというやり方である。

その結果、実際には、父祖代々で与力・同心という家が、圧倒的多数となっていく。

ちなみに、彼らは将軍にお目見えできない御家人(ごけにん)という身分である。

奉行は数年で交替する素人であるが、吏員の与力・同心は父祖代々の専門家だったのである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?