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日本史人物伝 No.195~200

No.195 石川忠房

1756(宝暦5)12月13日~1836(天保7)1月18日(西暦:3月5日)

読み:いしかわ・ただふさ

姓:石川(いしかわ)

諱(いみな):忠房(ただふさ)

幼名:岩次郎(いわじろう)

通称:太郎右衛門(たろうえもん)、六右衛門(ろくえもん)

官位:従五位下、左近将監(さこんしょうげん)

性別:男

出身地:不明

江戸後期の旗本。「文政三傑」の一人。


No.196 伊丹勝興

?~1756(宝暦5)以降

読み:いたみ・かつおき

姓:伊丹(いたみ)

諱:勝興(かつおき)

通称:左兵衛(さへえ、さひょうえ)

性別:男

出身地:不明

江戸後期の武士。旗本か? 石川忠房の実父。


No.197 石川忠国

?~1764(明和元)以降

読み:いしかわ・ただくに

姓:石川(いしかわ)

諱:忠国(ただくに)

通称:鍋八郎(なべはちろう)

性別:男

出身地:江戸

江戸中期の旗本。石川忠房の養父。


No.198 大屋正己

生没年不詳

読み:おおや・まさみ

姓:大屋(おおや)

諱:正己(まさみ)

通称:四朗兵衛(しろべえ)

性別:男

出身地:不明

江戸後期の武士。旗本か? 石川忠房の養子の実父。


No.199 石川忠良

?~1836(天保7)以前

読み:いしかわ・ただよし

姓:石川(いしかわ)

諱:忠良(ただよし)

通称:六右衛門(ろくえもん)

性別:男

出身地:不明

江戸後期の旗本。石川忠房の養子。


No.200 石川忠敏

?~1837(天保8)以降

読み:いしかわ・ただとし

姓:石川(いしかわ)

諱:忠敏(ただとし)

通称:太郎左衛門(たろうざえもん)

性別:男

出身地:江戸

江戸後期の旗本。石川忠房の孫。養子、忠良の実子。


石川忠房の生涯

伊丹勝興(いたみ・かつおき)の次男で、石川忠国(いしかわ・ただくに)の養子。

遠山景晋(とおやま・かげみち)、中川忠英(なかがわ・ただてる)と共に「文政三傑」と呼ばれ、文政年間の能吏として称えられた。

実子は早世し、大屋正己(おおや・まさみ)の三男、忠良(ただよし)を養子とした。

1763(宝暦13)石川忠国の養子となり、1764(明和元)8月に家督を継ぐ(家禄300俵)。

1773(安永2)12月に大番、1788(天明8)には大番組頭となった。

1791(寛政3)目付に就任、同年12月に布衣(ほい)を許される。

1793(寛政5)通商を求めたロシアの使節、ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対し、同じく目付の村上義礼(むらかみ・よしあや)とともに「宣諭使(せんゆし)」という役職を与えた。

根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せ会談を行い、忠房は鎖国の国是のため、長崎以外では交易しないことを穏便に話した。

また、長崎入港の信牌(しんぱい:入港許可証のようなもの)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)らの身柄を引き受けた。

1795(寛政7)作事奉行となり、12月17日に従五位下、左近将監に叙任された。

1797(寛政9)勘定奉行。

1798(寛政10)より道中奉行を兼帯し、駅制の改革をおこなった。

中山道の安中宿(あんなか・じゅく)が人馬の継ぎ立てに苦しんでいたため、定助郷19ヶ村の外に24ヶ村を増助郷として追加し、負担を軽くした。

この一件により、地元民から慕われて生き神として祀られた。

石川忠房の生祠として現存しており、また群馬県桐生市堤町にも現存している。

1801(寛政13)兼帯で蝦夷地御用掛を命じられ、根室、知床方面を巡検。

1806(文化3)12月には、西丸留守居役に就任した。

1808(文化5)10月には、小普請組支配となり、1819(文政2)9月には、勘定奉行に再任。

1828(文政11)8月、本丸御留守居役となる。

1836(天保7)82歳で没し、牛込(現在の新宿区原町)の幸國寺に葬られた。

既に養子の忠良は没していたため、翌8年に、孫の石川忠敏(いしかわ・ただとし)が家督を相続した。

和歌に秀でており、ラクスマンが帰国した際、「異国(とつくに)の 船ふきおくれ 日本(ひのもと)の たみを恵みの 天津神(あまつかみ)かぜ」と詠んでいる。

また、松前派遣時の和歌集「石川左近将監詠草(いしかわ・さこんしょうげん・えいそう)」(写本だが、北海道大学蔵)がある。

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