経済(物流)で見る織田政権②
桶狭間の戦いに勝利した織田信長。
彼は、その勢いで、美濃国(みの・のくに:今の岐阜県南部)を支配下に置きます。
そして、足利義昭を迎え、京都に上洛します。
京都に着いた時、足利義昭や朝廷から、官位や幕府の重要な役職などを与えようと言われましたが、信長は、これをきっぱりと断りました。
それよりも堺(今の大阪府堺市)と近江国(おうみ・のくに:今の滋賀県)にある大津と草津が欲しいと言っています。
この三か所は、交通の要衝です。
様々な物資が運ばれる地域ですね。
特に堺は、商人の町として、絶大な財力を誇っていました。
信長が上洛した頃には南蛮貿易もおこなっており、鉄砲などの輸入も手掛けていました。
ここが欲しいと言った信長。
彼は、津島や知多半島の財力を通じて、物流の重要性に気付いていました。
堺からの南蛮貿易の品を抑える事で、東国の大名たちよりも有利な立場となることができます。
また、近江の大津と草津を抑えれば、琵琶湖を経由して日本海につながる物流を抑える事もできます。
これで北陸の大名にも有利な状況となります。
更に、琵琶湖の流通を確保するため、信長は、北近江の浅井家と同盟を結びました。
堺については、商人の町という事で、武士の支配を毛嫌いする傾向にありました。
これまでの支配者は、その商人たちの力を抑える事ができず、商人による自治が成立していたのです。
そこで信長は、代官に武士ではなく、商人の今井宗久(いまい・そうきゅう)を起用します。
宗久の協力のおかげで、堺を掌握する事に成功したのです。
この状況を嫌がって、越前(えちぜん:今の福井県)の朝倉家は、たびたび織田家と戦う事になります。
これに気付いた浅井家も同盟を破棄。
本願寺や武田家、上杉家なども織田家に対して攻撃を始めます。
信長包囲網というやつです。
足利義昭が信長を排除しようと、各国の大名に要請したものですが、大名たちが動いた真の理由は、物流を抑えられる事を危惧したからに他なりません。
その証左として、信長は、しっかりと物流を抑えていきます。
まず、国内生産が不可能だった、火薬の原料である硝石(しょうせき)と弾丸の原料である鉛の流通を差し止めます。
長篠の戦いで、武田軍も鉄砲を使っていましたが、弾丸には鉛ではなく、銅が使われていました。
銅銭を溶かして、弾丸を作っていたんですね。
鉛が手に入らなかったからです。
しかし、鉛の方が威力が大きい。
更に、硝石が手に入らないので、武田家は鉄砲を多く使用する事ができませんでした。
長篠の戦いが織田・徳川連合軍の勝利で終わったのは、物流の差によるものだったのです。
堺を抑え、南蛮貿易を掌握し、琵琶湖周辺を抑え、日本海に通じる物流を掌握した信長。
次に抑えるべき地は、瀬戸内海でした。
南蛮船は九州に来航します。
それから瀬戸内海を経由して、堺にやってきます。
信長も、西国の大名に物流を抑えられている状態だったのです。
当時、瀬戸内海の物流を抑えていたのは、中国地方を制覇した毛利家でした。
織田家と毛利家が争うのは、時間の問題となっていたのです。
毛利家が本願寺を応援したのも、瀬戸内海の海上交通を織田家に奪われないようにするためでした。
更に、毛利家は瀬戸内海の物流を確固たるものにするため、対岸の四国も支配下にしようと画策します。
そんなことをされたら、信長にとって大打撃となります。
そこで信長は、四国で台頭していた長宗我部元親と同盟を結びます。
毛利家を牽制するためです。
しかし、長宗我部元親が、徳川家康のように、言う事を聞かない武将だと分かると、方針を転換します。
毛利家と長宗我部家に瀬戸内海を抑えられる事を嫌い、四国にも侵攻しようと画策したのです。
信長自身は、中国の毛利家に決戦を挑もうと出陣を決定します。
北陸や関東よりも、中国地方が最優先であった事を物語るものです。
しかし、ここで本能寺の変が起きてしまいます。
信長の天下統一(物流統一)は夢幻に終わったのでした。