日本史人物伝 No.204~205
No.204 田沼意知
1749(寛延2)~1784(天明4)4月2日(西暦:5月20日)
読み:たぬま・おきとも
姓:田沼(たぬま)
諱(いみな):意知(おきとも)
通称:龍助(りゅうすけ)?
官位:従五位下、大和守(やまと・のかみ)、播磨守(はりま・のかみ)、山城守(やましろ・のかみ)
性別:男
出身地:江戸
田沼意次(たぬま・おきつぐ)の息子。若年寄。
No.205 黒沢定紀
生没年不詳
読み:くろさわ・さだのり
姓:黒沢(くろさわ)
諱:定紀(さだのり)
通称:不明
性別:男
出身地:不明
江戸中期の武士。田沼意次の妻の父。詳細不明。
田沼意知の生涯
老中を務めた、遠江国(とおとうみ・のくに)相良藩(さがら・はん)藩主・田沼意次の嫡男として誕生。
母は黒沢定紀(くろさわ・さだのり)の娘。
正室は松平康福(まつだいら・やすよし)の娘。
1767(明和4)19歳にして従五位下大和守に叙任される。
1781(天明元)12月15日には奏者番。
1783(天明3)意次の世継ぎの身分のまま若年寄となり、意次が主導する一連の政治を支えた。
これは徳川綱吉(とくがわ・つなよし)の時代に、老中の大久保忠朝(おおくぼ・ただとも)の子・忠増(ただます)が世継ぎのまま若年寄になって以来の異例な出世であった。
また、老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄でありながら奥詰めもした。
その翌年、江戸城内において佐野政言(さの・まさこと)に襲撃され、治療が遅れたため、8日後に死亡した。
享年36歳。
父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは暗殺の直前であった。
江戸市民の間では、佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても、松平定信(まつだいら・さだのぶ)ら反田沼派が台頭することとなった。
江戸において、田沼意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長のイサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝えている。
そして「田沼意知の暗殺は、幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである。」と書き残している。