世界史人物伝 No.187~188
No.187 申耽
?~220(延康元)以降
読み:しん・たん
姓:申(しん)
名:耽(たん)
字(あざな):義挙(ぎきょ)
性別:男
出身地:益州漢中
後漢末から三国時代の武将。
No.188 申儀
?~228(太和2)以降
読み:しん・ぎ
姓:申(しん)
名:儀(ぎ)
字:不明
性別:男
出身地:益州漢中
後漢末から三国時代の武将。
申耽の生涯
漢中(かんちゅう)の豪族の一人で、民政にはなかなか有能な人物だったことから、張魯(ちょう・ろ)や曹操に認められ、その家臣となっていた。
弟に申儀(しん・ぎ)がいる。
219(建安24)劉備が漢中に侵攻し曹操が撤退すると、周辺地域に劉備の勢力が及ぶようになり、上庸(じょうよう)も標的となったため、申耽は劉封(りゅう・ほう)と孟達(もう・たつ)の軍勢に降った。
このとき、征北将軍に任じられている。
220(延康元)孟達が寝返った際には弟と異なり劉封に味方したが、劉封が上庸から敗走すると、再び曹操に降伏した。
その後、上庸の地から遠ざけられ、懐集将軍に任じられ、南陽郡の守備を任された。
228(太和2)の孟達反乱時の動向は伝わっていない。
申儀の生涯
219(建安24)劉備が漢中に侵攻し曹操が撤退すると、周辺地域に劉備の勢力が及ぶようになった。
上庸もその標的となったため、申儀は、兄と共に劉封・孟達の軍勢に降った。
この時、建信将軍・西城太守に任命されている。
220(延康元)孟達が魏に寝返った際、申儀は、兄と袂を分かちこれに同調し、劉封を上庸から敗走させ、兄を降伏させた。
このことで兄が上庸の地から離され、懐集将軍に任じられ、南陽を守備することになったため、申儀は兄の地位を引き継いだ。
魏が建国され、西城・房陵・上庸が新城郡に統合されると、西城太守から魏興太守に転じ、員郷侯となって洵口の地に駐屯した。
太和年間に孟達と仲違いを起こし、孟達に叛意があることを密告した。
228(太和2)司馬懿の孟達征伐の際には、蜀漢からの援軍を防ぎ、孟達を滅ぼすことに貢献した。
その後、司馬懿の勧めで上洛し、楼船将軍に任命され、諸侯並の待遇を与えられた。
なお、『晋書(しんじょ)』宣帝紀(せんていき)によると、これ以前から辺境の地であることをいいことに、詔書を偽造するなど勝手な振る舞いをしていたため、まもなく自身の傍若無人な振る舞いをも咎められ、詔書偽造の罪で中央に召喚されたという。