日本史人物伝 No.250~257
No.250 尾藤二洲
1747(延享4)10月8日~1813(文化10)12月14日
読み:びとう・じしゅう(にしゅう)
姓:尾藤(びとう)
諱(いみな):孝肇(たかもと)
通称:良佐(りょうすけ)
字(あざな):志尹(しいん)
号:二洲、約山(やくざん)
性別:男
出身地:伊予国(いよ・のくに:今の愛媛県)川之江(かわのえ)
江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人。
No.251 飯岡義斎
1717(享保2)~1789(寛政元)11月8日
読み:いいおか・ぎさい
姓:飯岡(いいおか)
諱:孝欽(たかよし)
通称:不明
字:徳安(とくあん)
号:義斎(ぎさい)、澹寧(たんねい)
性別:男
出身地:不明
大坂の儒学者。尾藤二洲、頼春水(らい・しゅんすい)の義父。
No.252 尾藤梅月
生没年不詳
読み:びとう・ばいげつ
姓:飯岡(いいおか)→尾藤(びとう)
諱:直子(なおこ)
号:梅月(ばいげつ)
性別:女
出身地:摂津国(せっつ・のくに)立売堀裏町(今の大阪市西区)
飯岡義斎の三女。尾藤二洲の妻。
No.253 高津東白
生没年不詳
読み:こうづ・とうはく
姓:高津(こうづ)
諱:不明
通称:不明
号:東白(とうはく)
性別:男
出身地:伊予国
江戸中期の儒学者。尾藤二洲の師の一人。
No.254 藤村九皐
生没年不詳
読み:ふじむら・きゅうこう
姓:藤村(ふじむら)
諱:不明
通称:不明
号:九皐(きゅうこう)
性別:男
出身地:讃岐国(さぬき・のくに:今の香川県)和田浜
江戸中期の儒学者。尾藤二洲の師の一人。
No.255 越智高洲
?~1826(文政9)
姓:越智(おち)
諱:翼(つばさ)
通称:文平(ぶんぺい)
字:子亮(しりょう)
号:高洲(こうしゅう)
性別:男
出身地:播磨国(はりま・のくに:今の兵庫県南部)
江戸後期の儒者、医者、書家。大坂に住し、尾藤二洲に学んだ。
No.256 赤松春庵
生没年不詳
読み:あかまつ・しゅんあん
姓:赤松(あかまつ)
本姓:越智(おち)
諱:惟義(これよし)
通称:不明
字:子方(しほう)
号:春庵(しゅんあん)
性別:男
出身地:播磨国(はりま・のくに:今の兵庫県南部)
江戸中期の医者。大坂にて開業。本姓は越智(おち)。
No.257 越智譲窩
1826(文政9)以前~?
読み:おち・じょうか
姓:越智(おち)
諱:不明
通称:不明
号:譲窩(じょうか)
性別:男
出身地:大坂?
江戸後期の儒者。越智高洲の息子。
尾藤二洲の生涯
妻は、儒学者の飯岡義斎(いいおか・ぎさい)の娘、梅月(直子)。
妻の姉が、頼山陽(らい・さんよう)の母である頼梅颸(らい・ばいし)であるため、山陽は甥にあたる。
伊予国川之江(現在の愛媛県四国中央市)の船頭の子として生まれた。
しかし、足を病んで家業を継ぐことができなかった。
幼時に高津東白(こうづ・とうはく)より句読を授けられる。
その後、儒医の宇田川楊軒(うだがわ・ようけん)に学び、青年期に讃岐国和田浜(現在の香川県観音寺市豊浜町)の儒医、藤村九皐(ふじむら・きゅうこう)・合田求吾(ごうだ・きゅうご)に学んだ。
1770(明和7)24歳より大坂に出て、片山北海(かたやま・ほっかい)の門に入り、頼春水(らい・しゅんすい)・頼春風(らい・しゅんぷう)・頼杏坪(らい・きょうへい)兄弟、中井竹山(なかい・ちくざん)・中井履軒(なかい・りけん)兄弟、古賀精里(こが・せいり)等と共に学んだ。
1791(寛政3)幕府の直轄教育機関である昌平黌(しょうへいこう)の教官となり、寛政異学の禁の後の教学を指導した。
唐の詩人、陶淵明(とう・えんめい)を好み、晩年には、同国の詩人、白居易(はく・きょい)に親しんだ。
性格は「恬淡簡易」と評され、甥の頼山陽と歴史への関心を分け持ち、夜が更けるのも忘れ「喜んで本邦群雄の事跡を談じ」たという。
三博士の中では、もっとも詩人の素質に富み、こだわりなく詩を作る。
詩は「唐を以て法と為す」べきであるが、陳腐にならないように新しい感覚のある宋詩をも読むべきである、ただし「宋人は雅俗を択ば」ないので模倣しすぎると詩の形を為さなくなる、と考えていた。
二洲の詩は、世俗を避ける心と結びついている。
冢田大峯(つかだ・たいほう)が、異学の禁に反対する声明を出した時、二洲の門人で動揺するものが少なくなかったことを考え合わせると、二洲自身に権力で学問を統一することを忌む気風があったのではないかと推測される。
門下には長野豊山(ながの・ほうざん)・近藤篤山(こんどう・とくざん)・越智高洲(おち・こうしゅう)・筒井政憲(つつい・まさのり)らがいる。
著書に『論孟衍旨(ろんもうえんし)』『学庸衍旨(がくようえんし)』『正学指掌(せいがくししょう)』『称謂私言(しょういしげん)』『国学指要(こくがくしよう)』がある。
青年時代から読書や雑談のうちに思いつくことがあると、机にある紙片にその思いつきを書きとどめる習慣があり、それらの断片を整理配列したのが『素餐録(そさんろく)』、『静寄余筆(せいきよひつ)』、『冬読書余(とうとくしょよ)』である。
弟子の越智高洲について
越智高洲は播磨(はりま:今の兵庫県南部)の人で、医者である父が大坂にて開業した際、共に大坂に移住した。
父の赤松春庵(あかまつ・しゅんあん)が二洲と親しかったことから、二洲に学ぶことになった。
越智譲窩(おち・じょうか)という息子がいる。
父の名前からも察するように、もともと赤松という姓であったが、本姓の越智に復している。
越智という家名は、伊予に勢力を持っていた古代氏族の家名であるので、師の二洲(伊予出身)の影響を受けたものかもしれない。
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