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江戸の役所から その2

父祖八代に渡って、町奉行所の与力(よりき)を務め、自身も南町奉行所与力だった佐久間長敬(さくま・おさひろ)という人物いる。

佐久間は、『嘉永日記抄(かえいにっきしょう)』という書物に、町奉行と与力・同心(どうしん)との関係について、興味深い話を残している。

佐久間「与力・同心は、町奉行の中で隠然たる力を持っていて、町奉行は人形で、与力・同心が人形遣いという関係にある」

誇張が含まれている可能性もあるが、役所を実際に動かしていたのは、与力・同心という世襲的な吏員であったことが分かる。

佐久間「見物人は、人形の奉行を見て、これを名奉行と誉めるけれど、実は、人形遣いの与力・同心が、人形である奉行を上手に遣って動かしたからである」

お奉行とか、お頭と呼んで敬っているものの、奉行と与力・同心の関係は、このようなものだったようである。

佐久間「名奉行といわれた人は、部下の与力・同心を甘く使ったので、この御奉行ならと思って仕えて、よく働いた結果、奉行が誉められただけのことである」

与力・同心は、自らの既得権益を守る「抵抗勢力」で、そこの問題には切り込まず、甘く使うような奉行には、よく仕え、奉行も名奉行と呼ばれた。

しかし、実際は与力たちの言いなりになっていただけだというのである。

佐久間「これとは反対に、虫の好かない奉行が着任すると、与力・同心は敬遠し、面従腹背で協力しないので、奉行は二、三年のうちに転任せざるを得なくなり、実質的には、町奉行所から追い出したようになった」

奉行所の組織改変や行政改革をしようとする奉行には、非協力で抵抗し、短期間で辞めざるを得ない状況にして、追い出したような形になったという。

佐久間「江戸町人にとって、奉行は交替するもので、与力・同心は代々世襲で勤めるものだから、町人の利害にとっては、町奉行よりも与力・同心の方が重要であり、与力・同心の不利益は、間接的に町人の不利益ともなった」

このようなことは、町奉行だけのことではなかった。

他の役所においても、実務を実質的に担った吏員たちが、町奉行の与力・同心と同じような存在だったのである。

そもそも「金さん」たちのように、いくつもの役職を渡り歩き、それでも職務が勤まった理由は、個人の能力や資質よりも、江戸幕府役所機構の成熟度によるものと考えられる。

実務を世襲的に努めた吏員たちが担っていたから、奉行の交替が可能だったのである。

そこには、奉行所の行政のあり方によって、強い影響を受ける町人たちの利害という問題もからみ、複雑である。


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