戦争について語ろう(4)
争いの世界
戦争を無くす事はできるでしょうか。
結論から言うと、私は、無くならないと思っています。
なぜなら、人は争う生き物だからです。
この世は、争いに満ち溢れています。
ただ、何もかも悪いとは限りません。
健全な争いも存在します。
例えば、企業間の開発競争や販売競争。
企業が競わなかったら、良い製品は生まれて来ないと思います。
スポーツも、一種の争いですね。
勝敗が決まるという事は、争いが存在している事にほかなりません。
競争心があるからこそ、豊かな暮らしが存在し、感動が生み出される・・・と言っても、過言ではないでしょう。
しかし、その競争心は、時に、人を暴走させてしまいます。
スポーツを事例に出すと、ファンや運営陣の暴走が挙げられるでしょう。
熱狂的なファンが、対戦前に、敵チームの宿泊施設を囲み、一晩中騒いで、睡眠不足に陥らせようとした事件がありました。
また、判定が不服だとして、暴動を起こした事件もありました。
運営陣の暴走では、審判の買収がありますね。
勝たなければならないという、強迫観念に取り憑かれているようです。
ですが、世の中を見渡せば、勝たなければならないのも事実です。
勝てば、利益が増大し、負ければ、不利益を被るからです。
だからこそ、誰もが必死に競争するわけです。
そして、必死な人の中から、暴走を始める人が出て来るのでしょう。
利益を得る事が目的であって、争いは手段に過ぎないのですから、不正であっても、簡単な道が有れば、そちらを選ぶ人が出て来ても、おかしくはありません。
そして、そんな人が現れた時、必ず存在するのが、相手となる人物、もしくは団体です。
相手となった者は、そのまま負けを認めるしかないのでしょうか?
学校や職場という限られた空間で、考えてみたいと思います。
まず、負けを認めなかった場合は、どうなるでしょうか?
暴力沙汰になる可能性もありますし、暴走する人の不正を指摘し、多くの味方を付けて、これに対抗する事もあるでしょう。
喧嘩となるか、裁判となるか、それは、相手となった人の力量次第でしょう。
では、負けを認めた場合は、どうなるのでしょうか?
「いじめ問題」は、負けを認めた結果、起きているように感じます。
これもまた、相手となる人の力量が関わってくるでしょう。
暴走する人に対抗する気力も無く、味方を得る事もできず、孤立無援・・・。
みんな仲良くは、夢のまた夢。
理想を捨ててはいけませんが、現実から目を背けてはいけないと思っています。
さて、上記の内容は、学校や職場だけでなく、地球という空間に限定しても考える事ができそうです。