日本史人物伝 No.246~249
No.246 古賀精里
1750(寛延3)10月20日~1817(文化14)5月3日
読み:こが・せいり
姓:古賀(こが)
諱(いみな):樸(すなお)
通称:弥助(やすけ)
字(あざな):淳風(じゅんぷう)
号:精里(せいり)
性別:男
出身地:肥前国(ひぜん・のくに:今の佐賀県)佐賀
江戸中期の儒学者。「寛政の三博士」「寛政の三助」の一人。
No.247 古賀忠能
?~1750(寛延3)以降
読み:こが・ただよし
姓:古賀(こが)
諱:忠能(ただよし)
通称:不明
性別:男
出身地:肥前国佐賀
古賀精里の父。
No.248 鍋島主膳
?~1766(明和3)以降
読み:なべしま・しゅぜん
姓:鍋島(なべしま)
諱:直隣(なおちか)?
通称:主膳(しゅぜん)
性別:男
出身地:肥前国佐賀
佐賀藩8代藩主:鍋島治茂の実兄。5代藩主宗茂の五男:直隣か?
No.249 横井小車
?~1774(安永3)以降
読み:よこい・しょうしゃ
姓:横井(よこい)
諱:不明
通称:不明
号:小車(しょうしゃ)
性別:男
出身地:不明
江戸中期の儒学者。京都にて朱子学を教授していた。古賀精里の師。
古賀精里の生涯
佐賀藩士:古賀忠能(こが・ただよし)の子として生まれる。
息子に穀堂(こくどう)、侗庵(とうあん)がいる。
また、孫に謹一郎(きんいちろう)がいる。
1766(明和3)8代藩主:鍋島治茂(なべしま・はるしげ)の実兄:鍋島主膳(なべしま・しゅぜん)の執事となったが、病気のため辞職。
1774(安永3)治茂から京都や大阪への遊学が許される。
京都に遊学し、横井小車(よこい・しょうしゃ)に朱子学を、西依成斎(にしより・せいさい)に山崎闇斎(やまざき・あんさい)の学を学ぶ。
大坂では尾藤二洲(びとう・じしゅう)や頼春水(らい・しゅんすい)らと親しく交わった。
1779(安永8)帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え、1781(安永10、天明元)に藩校・弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定め、その基礎を確立した。
闇斎朱子学の教説に基づき、学問思想の統制をはかった。
幕府からの召命を3回断るが、1796(寛政8)に上京して、幕府直轄の教育機関:昌平黌(しょうへいこう)の儒官となる。
柴野栗山(しばの・りつざん)・尾藤二洲とともに、寛政の三博士といわれた。
三人はいずれも、懐徳堂(かいとくどう)の中井竹山(なかい・ちくざん)と親交があり、老中の松平定信(まつだいら・さだのぶ)の寛政の改革に際して、相互に影響を与えたとされる(寛政異学の禁)。
ちなみに、懐徳堂とは、大坂の商人たちが設立した学問所である。
門下は、羽倉簡堂(はくら・かんどう)・草場佩川(くさば・はいせん)・斎藤拙堂(さいとう・せつどう)・野田笛浦(のだ・てきほ)・篠崎小竹(しのざき・しょうちく)・野村篁園(のむら・こうえん)・満野荷州(みつの・かしゅう)など多数輩出している。
性格は「厳密寡黙」と頼山陽(らい・さんよう)に評され、妻の死後は、再婚せずに独身で過ごした。
漢詩をよくし、精里の詩は、学者らしい観念的な詩である。
著書『十事解(じゅうじかい)』は、1789(寛政元)支藩の蓮池藩(はすのいけ・はん)のために、施政治民の要を説いたものである。
1915(大正4)従四位を追贈されている。