妻の癌(がん)死で分かったこと
妻の癌(がん)死で分かったこと
目次
はじめに
第一章 癌が発見され末期に近いことが判明するまで
第二章 治療の実際
● 治療開始前の医者の説明
● 1回目の治療
● 2回目の治療
● セカンドオピニオンの梯子をやる
● 緩和治療だけとなる
● いっそうの意識混濁と幻覚の進行
● 麻酔薬の追加そして死亡
第三章 治療を受けて分かったこと感じたこと思ったこと
● 癌についての基礎知識について
● 癌治療の単純さに驚いた
● 癌標準治療とマニュアル
● 「それで治るなら医者は取り入れているよ」は浅い考え
● いい標準外治療はいっぱいある
● 通常常識から深化常識へ
● 免疫療法の医者は三大療法に批判的
● 抗癌剤は効かない
● 抗癌剤は発癌剤であり免疫抑制剤である
● 食事療法も重視する統合医療を試したかった
● 藁をも掴むことを愚かと思うなかれ
● 緩和治療とはそんなことだったの?
第四章 妻はなぜ癌になったのか
● 病院では病気の原因は不問となっている
● 低体温体質
● 暑がりで冷え性
● カラスの行水に水シャワー好き
● 冷たい食べ物・熱い食べ物・甘い食べ物
● 降圧剤の長期服用と頭痛薬の頻用
● むくみと肥満
● 異常な皮膚のシミとアカギレ
● 慢性的な便秘
● 歯が弱かった
● 末期に発見・最悪の場所はなぜ
● 自覚されないストレス
● 結局はどれも結果論
● 医療システムの変更を望む
● 丈夫な人は早く死ぬ
おわりに
妻の癌経過表
妻の癌(がん)死で分かったこと
2009年3月 お彼岸の頃 菊池嘉雄75歳
はじめに
妻は癌による多臓器不全で平成20年10月27日に満71歳で公立刈田(かった)綜合病院にて死亡した。癌が発見されたのは同年の7月14日であった。それから約3カ月余で死亡するまで、妻を助けようと、癌について、又その治療法について、必死になって調べたことや、病院にかかってみて分かったことをまとめてみた。
癌の表記には「癌」「がん」「ガン」があり、現在は「がん」が最も多く使われているが、「妻ががんになったので・・・」よりも「妻が癌になったので・・・」のほうが読みやすく、1字少なくてすむので、本書では全て「癌」で表記する。ただし「国立がんセンター」など固有の表記はそれに従うことにする。
第一章 癌が発見され末期に近いことが判明するまで
妻は4月頃、体調がすっきりしないなど、かすかな不調感があった。5月から6月半ばにかけても時折だるさや疲労感があった。それは年のせいなのだろうと妻と私は話し合っていた。7カ月前の住民検診でも異常がなかったし、かかりつけのA医者も重視しなかったので、そう思っていたのだ。癌の心配といえば乳癌を心配していた。というのは住民検診で乳癌の精密検診を受けるよう勧告を受け、年に一回、毎年、大学病院で乳癌の検診を受けていたからである。
6月下旬、胃のあたりに痛みを感じてかかりつけのA医者に行った。A医者は血圧の薬をもらうために、もう何年もかかっているなじみの医者である。A医者はガスター10という胃薬を処方した。ということはA医者は胃の不調だけと診ているのだろうと妻と話し合った。それを飲んで一時は治まったかに見えたが数日して同じ状態になり再度A医者に行った。A医者は同じ胃薬を増量した。「増量して経過を診るんだろうか?」などと二人でいぶかりながら飲んだ。しかし、数日して同じ状態が続いたので別な医者にかかってみようとB医者に行った。B医者は若い医者で、すぐ検査をすることと、薬をたくさん処方することで評判になっている医者であった。さっそく腹部エコー検査が行われて「しこり」の影が映し出された。ちなみにA医者は腹部エコー検査をすることはなかった。「しこり」の正体を確かめるべく内視鏡(胃カメラ)で見ることになり、7月14日に内視鏡が挿入された。内視鏡で見ると胃は異常なかったが十二指腸内は赤い血の色で染まっており、十二指腸壁に何やら肉腫のようなものが顔を出していた。「これはおそらく癌だと思います」とB医者。妻の体に癌があることが発見された瞬間だった。B医者はその場で公立刈田綜合病院に連絡をとり、そこで精密検査をしてもらうよう私たちに指示をした。私としては県立がんセンターに連れて行きたい気持ちがあったのだが、痛みとだるさがひどくなっていたので、刈田病院で安定してもらってからがんセンターに転院しようと、まずは刈田病院にかかることにした。
刈田病院で血液検査、腫瘍マーカー検査、内視鏡検査、X線検査、CTスキャンなど諸検査が行われ、更に宮城県岩沼市にある南東北総合病院でPET(ペット)検査を受けるよう指示された。PET検査とは全身の癌があるところを映し出す最新の検査機器である。その機器により十二指腸あたりに癌があることが写し出された。毎年、大学で診ていた乳癌は写し出されなかった。一カ所だけが写っているということは他には転移していないということであった。それら諸検査を精査して刈田病院の外科医から7月23日に病状と治療について説明を受けた。それによれば、胃の下部と十二指腸と膵臓と三つの臓器に貼り付くように存在する腎臓大の癌でステージⅢ+、Ⅳが末期だから末期に近い癌であった。治療としては切除は得策でなく放射線も不適なので化学療法(抗癌剤療法)しかないとのことであった。いつからこの癌が始まったのかについては、「最近急に始まったのかもしれないし、1、2年かかって大きくなったのかもしれないし、よく分からない」とのことであった。また、顕微鏡で癌細胞を診る病理検査の結果、印鑑のように丸い形をしている印鑑癌細胞で、「これは胃が原発のことが多いから膵臓癌ではなく胃から発生した癌でしょう」と言われ、「膵臓癌ではないのか」と娘二人とホッと顔を見合わせた。膵臓癌だったら治らないと聞いていたからである。「うちの病院には腫瘍内科の専門医がいますからそちらで治療していただくようになります」との外科医の言葉に「ほう、腫瘍内科医という専門家がいるのか、それなら治療を託していいかもしれない」という気にさせられ、娘たちも同意見で、治療をお願いすることになった。ここまでの説明は妻を除いて私と娘二人の三人で聞いた。
第二章 治療の実際
● 治療開始前の医者の説明
腫瘍内科に移る前に妻と私の二人で外科医から説明を受けた。外科医の説明では「最近は良い抗癌剤も開発されているのでやってみる価値はあります。抗癌剤で癌が小さくなったら切り取ることができるかもしれません。ただしやってみなければ分かりません」とのことであった。「良い抗癌剤も開発されており」と聞いて「最近の癌治療は進んだそうだから効く抗癌剤が開発されたのだろうな」と思う一方、「価値はあります」という言い方は、治らないということを前提にしての言い方のように聞こえたのだが妻は本当に価値があると受け取ったようだ。説明の中で抗癌剤の有効率は20%から30%という言葉も聞こえた。20%30%とは抗癌剤で癌が治る人が20%30%なのだと私は聞き取り、「妻は元来丈夫で風邪薬なんかもよく効くし、運のいい人だから20%30%に入るだろう」と希望的に受け取った。が、それはとんでもない誤解であることが後で分かった。また、「やってみなければ分からない」という言い方も、結果が悪い場合に備えて一応言っておく言葉なのだろうぐらいに思っていた。
● 1回目の治療
腫瘍内科に移って7月29日から30日にかけて「5FU」「タキソテール」「ランダ」という3種類の抗癌剤が点滴で投与された。その後4週間おいて効いたかどうか確かめる。その間、治療らしいことは特にない。入院治療なので給食が出されるが食欲不振とだるさがあって少ししか食べられないので栄養点滴がなされている。十二指腸から出血しているのだが給食の献立はご飯が柔らかいだけで全くの普通食である。芋の煮っころがしやカボチャなど固めのものが出される。とても食べられないので自宅から持ち込んだものを食べさせてよいかどうか聞いたら「何でもどうぞ」と医者の答え。長女は「何でもいいと言われたとき、どうせダメだからなんでもいいのだ」と言われたような気がしたと後で語った。
2週間たった頃から胃あたりの痛みと腰痛はなくなったが、吐き気、頭部脱毛、便秘と下痢などの副作用が始まり、吐き気止めや整腸剤が処方された。全身のだるさは相変わらず続いた。
1回目の抗癌剤投与から15日たって医者から「家の様子も見たいでしょうから一週間外泊してきていいですよ。その間は退院扱いにしますから、家族といろいろ話してきてください」と言われて自宅に帰ったが、だるくて寝てばかりいる。好きな食べ物を用意してもすすまない。だるさがひどいので「もう病院に戻る」と5泊しただけで病院に戻ってしまった。なお、外泊は退院扱いなのでその間の費用はかからない。患者によっては抗癌剤を投与する間の1泊2日だけ入院し後は自宅で過ごす人もいるのだが、妻の場合は、だるさ、吐き気、食欲不振、便秘下痢などがひどいので入院治療となるのであった。
治療についての医者との面談は妻と一緒に、または私一人で度々行われた。妻は自分が癌であることや病状の程度、その治療方針について私と一緒に医者から説明を受けている。私と単独の面談では「十二指腸の出血が突出した場合には一気に死に至るであろう」「やがて食事は完全にとれなくなるであろう」「癌が胆管を塞げば肝臓が機能不全を起こし死にいたるであろう」「それらは何時起こってもおかしくない」などが説明された。
私が県立がんセンターへの転院も考えていることを話してみたら「向こうが受け入れるならいつでも手続きします」とあっさりした返事で「まあ、転院するなら1回目の治療の結果が出たあたりがいいかな」との言葉であった。また、「私がそのうちセカンドオピニオンの梯子(はしご)をしてみようと思っている」旨を打診したら、「どうぞ大いにやってください」とのことであった。セカンドオピニオンとは患者側が別の医者に意見を求めることである。
● 2回目の治療
4週間たって検査をしてみたら癌に変化がなかった。これに対して医者は「まあ、予想どおりといえば予想どおりで、抗癌剤が効かなかったとも言えるし、大きくならなかったのは効いたから大きくならなかったとも言えるので、もう一回やってみましょう」ということになった。私としては県立がんセンターに転院させたいと思っても本人の体調不良がひどく、点滴もはずせない状態なので、医者に相談してみたが、医者から向こうへ問い合わせてみるなどの姿勢は見られず「向こうへの入院は空き待ちになるかもしれないし、転院に伴うリスクは覚悟しなければならないでしょうね」と言われ、仕方なく2回目の治療をお願いすることになった。2回目の治療も前回同様3種類の抗癌剤が点滴投与された。副作用はいっそうひどく、吐き気止めや整腸剤が継続された。
9月1日に私の検診で県立がんセンターに行ったついでに、がんセンターの相談係に転院の相談をしてみた。それによれば、がんセンターの何科にかかるかを私が決めて、刈田病院の主治医とがんセンターの医者に打ち合わせをしてもらうことによって転院となるのだそうである。何科がいいのか私に分かるはずもない。刈田病院の医者にどう頼めばいいかも分からない。これでは進めようがないと転院をあきらめるしかなかった。もっとも、転院を進めてもムダだったのではないかということが後で分かった。それについては後で述べる。
癌性疼痛というのだそうだが体のあちこちが痛むようになり、貼る痛み止めの「デュロテップ」と点滴投与する「ロビオン」が使われ始めた。それを使い始めると午後3時頃から夜にかけて眠り続け、翌日の午前から午後2時頃までの間はさわやかな表情をしているようになった。
2回目の抗癌剤投与後20日ぐらいたってから効果を診る検査が行われたが、なんと癌が大きくなっていた。抗癌剤は全く効かなかったのだ。そればかりか体はすっかり衰弱してしまった。癌は勢いを増しているのに体は抵抗力を失うほうに進んでいる。そのことは諸検査のデータからだけでなく妻のやつれようから素人目にも明らかだった。
やがて顔色が次第に白くなり、貧血が進んでいるとのことで、輸血が行われ、輸血で体力をつけ、「家を見たいでしょうから」との医者のすすめで一週間の外泊をさせられるが、家に帰っても寝てばかりで、「だるいから病院に戻る」と3日で戻る有様となった。
● セカンドオピニオンの梯子をやる
刈田病院腫瘍内科医の治療説明書と膨大な画像フイルムや検査表等のデータをうんこらしょっと持って県立がんセンターに行き、がんセンター腫瘍内科医のオピニオン(意見)を聞いた。約45分、画像を見ながら、また、データを見ながら丁寧な説明を聞いた。結論は「がんセンターで治療する場合も同じ治療になる」という話だった。それならがんセンターに転院したとしても同じ結果になると思われた。十二指腸の出血が続いていることが私としては問題のように思われるので、なんとかとめる方法がないのか聞いてみた。そしたら、似た症例を扱ったことがあり、止血剤を使ったり、出血している部分を手術で塞(ふさ)いでも、別なところを癌が破るので防げなかったと説明された。そして、緩和治療がより適切な治療になるようなことを言われた。なお、この医者と刈田病院の医者は東北医大の同窓生で互いに知っている間柄であった。これがいいのか悪いのかと思いながら話を聞いた。
セカンドオピニオンは有料となっており30分で1万500円、15分超過するごとに超過料金がかかる規定になっている。15分ほど超過したのだがとられなかった。
次に、同じ治療説明書とデータを持って、東北大学医学部付属病院(以下大学病院)に行き化学療法医のオピニオンを聞いた。未だ若い医者だったが約2時間に渡って丁寧に説明をし、また、私の質問にも丁寧に答えた。結論はがんセンターの場合と同じだった。そしてこの医者も緩和治療の説明に力を入れた。
大学病院のセカンドオピニオン料金は1時間3万1500円で、やはり時間が超過すれば超過料金がかかる決まりだが、1時間分しかとられなかった。
三つの病院で妻の治療法を聞いてみたわけだが、三者とも「治せない」が結論であった。説明を聞いての帰り道、持ち帰る画像フイルムや検査表等がずっしりと重く感じられた。
● 緩和治療だけとなる
緩和治療とは癌をやっつける治療ではなく、心身の苦痛を緩和する治療のことであるが、刈田病院の医者は3回目の治療をするか、緩和治療だけにするか、こちらの意向を聞いてきた。というのは、抗癌剤は副作用としての苦痛感がひどいばかりでなく、体全体を衰弱させ、免疫力を弱める副作用もある。3回目をやるとすれば更に強い薬を使うことになる。そうなれば、抗癌剤で命取りになる可能性があるので、こちらの意向を確認しなければならなくなったのだ。要するに癌の治療はやめて死ぬまでの間の苦痛を和らげる治療にするということである。こうも言った「患者さんによっては死んでもいいから抗癌剤の治療を続けて下さいと言う方もいますが、明らかに無理と分かっている場合は医者としてはやれません」と。
私はその頃既に抗癌剤の危険性については勉強していたので、医者が言うまでもなく、弱った体に抗癌剤を注入することには乗り気でなかったのでこう言った。「妻の体力が回復したら3回目の治療をお願いします」。こうして、癌を消滅或いは縮小させる治療は打ち切られ緩和治療だけとなったのである。妻には「体力が弱っているうちは抗癌剤が使えないので、体力を回復させてから治療するんだって」と話した。妻は「半分だけでも癌を切り取ってもらえないの?」と言う。最初に聞いた説明の「抗癌剤で癌が小さくなったら切り取ることができるかもしれません」が頭にあるのだろう。切り取れば良くなると単純に思っているふしがある。それは無理もない。私の前立腺癌、姉の大腸癌、友人の乳癌など身近な人たちが切り取って元気でいるのを見ているからだろう。
食事が殆どとれなくなったので、病院の給食はやめて、自宅から粥(かゆ)やリンゴのすり下ろしなどを運んだ。そのうち顔や体が黄色くなり目も充血して、すっかり病人顔に変わり始めた。いわゆる黄疸(おうだん)症状で肝臓に異常を来たし始めたことがうかがわれた。記憶や意識にも陰りが出始めた。ベットの上に起きていて会話をすることもあるが、こちらの会話の意味が分からなかったり、意味不明のことを言ったりするようになった。孫の写真や友人からの手紙を見せてもなんのことか分からず、いつまでも見つめている。時折「なんだかなんにも分からない!」とつらそうに、叫ぶように言う。痛み止めで記憶や意識に障害が起き始めたのだ。医者との面談の際に「痛み止めは確かに痛みを消すけれども意識も消してしまうのですね」と言ってみたら「まあ、そうなのですが、初期の頃は痛みがなくて意識は正常でいられますから・・・」と言葉を濁した。確かに痛み始めた頃はそうだった。痛いというと直ぐに痛み止めを使ってくれて、本人はさわやかな表情で会話をしていた。が、時折、会話がすれ違ったり、自分の行動を記憶していなかったりなどの異常が起きるようになり、それが日とともにひどくなってきたのである。目は開いていても現実認識が正常でなく、ベットの柵を乗り越えようとして出来ずに「この柵がじゃまです取り除いてください」と言ったり、「早くここから出してください。お願いします」などと、誰に何を言おうとしているのか分からないことを口走るようになった。
● いっそうの意識混濁と幻覚の進行
そうこうしているうち癌性疼痛が更にひどくなり麻薬のモルヒネが加えられた。三種類の痛み止めが24時間連続投与されるようになったら朝から一日中眠りこけている。声をかければ目を開けて言葉を発するが、話し終わらないうちに、目をひっくり返して眠り出す。完全な交流不能状態となった。殆ど横たわっていて、時折、思い出したように起きあがろうとする。だが、筋力が落ちたせいなのか、それとも運動神経に異常を来たしたせいなのか起きあがることができず、ぐったりと仰向けになり、両手だけを上に挙げ、なにかを掴むようなしぐさをしたり、まさぐるようなしぐさをしたりしかできなくなった。音には敏感で、ベットサイドで私たちが孫の話をしたり、合唱練習の話をしたりすると、目を開き両手を空に泳がしたりする。それは孫のところに行かなければならないとか、合唱の練習にいかなければならないとの思いに駆(か)られ起きあがろうとするように見えた。
死亡の4日前、私が病室に入っていったら妻が珍しくベッドの上に起きあがっていた。妻は私を見ると目を輝かせて両手を挙げパチパチと拍手をし、「お父さん、すごーい!」と言う。「え?何?どうしたの?」と私。「みんなに見せたいなー。みなさーん!、見て下さーい!。みなさーん!、見て下さーい!」と妻は視線を宙に泳がせながら叫ぶように呼びかける。個室には私と妻の他に誰もいない。それは私のコンサートか講演のようなものを幻覚で見ているらしいと分かった私は、言葉を失って、妻の両手を握ったり、頭を抱きしめたりしかできなかった。
● 麻酔薬の追加そして死亡
死亡の前日に看護師から「更に安定するように麻酔薬を加えます。奥様がもっと楽になるための緩和治療なのですが、万が一のこともあります」との説明があり、「ケタラール」「ドルミカム」という二種類の麻酔薬が加えられた。「ケタラール」は薬品辞典で調べると、動物を一時眠らせる麻酔銃に使われるものと同じ薬品のようである。そのような麻酔薬を加えられた妻は確かに安定したが、安定というよりは更に昏睡状態が深まった感じである。それからほぼ24時間して呼吸音が変になり始めた。心臓の様子を監視する機械が心臓機能の低下を示し始め、血圧モニターも血圧の低下を示し始めた。そして、平成20年10月27日22時30分に心臓と呼吸が停止し、当直医師によって22時33分に死が確認され死亡宣告がなされた。荒々しい苦しそうな息遣いが静かに変わった時、意識が戻ることもなく、言葉を発することもなくこの世を去ってしまったのである。
第三章 治療を受けて分かったこと感じたこと思ったこと
ここまでは私の考察や思いをなるべく排して、事実や事象だけを記述してきたが、ここからは分かったことや感じたこと、そして考えたり思ったりしたことを記述する。
● 癌についての基礎的な知識について
これからの記述が理解されるためには、癌についてある程度の知識が必要となる。そこで最低これぐらいは必要だと思われる基礎的なことをまずは記述する。
1 体は髪の毛から皮膚や内臓、骨髄に至るまですべて細胞という顕微鏡で見なければ見えない柔らかい粒のようなもので出来ている。癌細胞に対して正常細胞ともいう。体全体で60兆個の細胞があると言われている。
2 正常細胞は一定期間がくれば自然に死んで、代わりの細胞が新たに作られ交代する。分かりやすい例で言えば垢(あか)は死んだ皮膚細胞である。内臓の細胞や筋肉の細胞の場合は交代した古い細胞は分解されて血液に溶け込み尿などにより対外に排泄される。
3 癌細胞は正常細胞がなんらかの原因で変化したもので一定期間が来ても死なないで増殖を続ける。増殖とは1個の細胞が分裂して2個の細胞となり、2個の細胞が分裂して4個となり、4個が8個、8個が16個というふうに急増し、増えるにあたっては沢山の栄養と酸素を必要とし、栄養と酸素を運ぶための血管を癌細胞みずからが作る、そのような働きのことである。
4 癌細胞は体内のいたるところで1日に数千個誕生しているが、免疫細胞等による攻撃によって、癌細胞が死滅したり、増殖が抑えられたり、正常細胞に戻ったりしている。つまり、癌細胞の増殖力と免疫力のバランスによって健康が保たれている。
5 癌細胞は35℃で最も増殖し、温度が高くなるにつれ不活発となり、39.3℃で死滅する。正常細胞は35℃台では不活発で36.6℃から37.2℃で最も活発となる。
● 癌治療の単純さに驚いた
今から約50年前、黒澤明監督、志村喬主演の「生きる」という映画があった。この映画は胃癌にかかった市役所の課長が死ぬ前に生き甲斐を求めて難題に取り組む物語で、高い視聴率をあげたが、この映画は一方で「癌イコール死」という認識を社会に広めた。それから約50年たった今、「癌は治る病気」と喧伝されるようになった。事実、私も前立腺癌だし天皇陛下も前立腺癌、妻の姉は大腸癌、いとこの旦那も大腸癌、友人は乳癌、ある知人は肺癌、ある知人は胃癌だが、みんな元気に暮らしている。確かに「癌は治る時代」になったような印象を受ける。国も平成18年6月に「がん対策基本法」を成立させ、各県に癌の拠点病院としての県立がんセンターを設置し、そこに行くと「がん診療連携拠点病院指定施設」と大書した看板が掲げてあるなどにより、癌に対する治療法が著しく進歩したような印象を受ける。
妻の治療に当たった腫瘍内科医は私との面談で「癌の治療は人によって実に様々で異なります。その人に合った治療をしなければなりません」というようなことを言った。私はそれを非常に好もしく聞いた。個人差に応じたきめ細かな治療をして貰えると受け止めて「進んだ最新の高度で且つ複雑な治療をして貰えるんだ!」と喜んだ。だが、実際に行われた治療は、1回目に三種類の抗癌剤を投与して効果がなく、2回目を試みたが効果がなかったので、あとは緩和治療にしますという単純なものであった。「なんだ、そんな単純なものだったの?」と驚いたのである。
● 癌標準治療と治療マニュアル
癌の標準治療とは手術、抗癌剤、放射線による治療のことで三大療法ともいわれ、保険がきく。公立病院はどこも標準治療しかやらず、治療マニュアルに従っていると思われる。だから、刈田病院、県立ガンセンター、大学病院でセカンドオピニオンを求めても同じような答えになるのだろう。医者同士が同窓生だったからとか、同業者だからとかで、かばいあっているわけではあるまい。大学病院の医者はポケットからマニュアル本を取り出し、それを見ながら、私にも見せながら説明した。
また、公立病院の勤務医が標準治療以外の治療法を取り入れたいと思ったとしても、保険がきかない治療はやれないだろうし、マニュアルにない治療をやって結果が良かったとしても病院内での立場が悪くなるかもしれないし、ましてや結果が悪ければ訴訟など起こされかねないことを思えば、標準治療をマニュアル通りにやるのが無難というものである。その結果いかにも個人差に応じた治療をやるようなことを言っても、実際は単純な運びになってしまうのだろう。そして大病院になるほど、大勢の医師、看護士、検査技師、事務方等が、システムとして連携し効率よく患者をこなさなければならないとすれば、マニュアルにもない、微妙な、時間のかかる対応を個々の患者に施すことなど困難とならざるを得ないだろう。
「がん対策基本法」により各県に設けられた癌の拠点病院は、治る見込みのない患者は地元の連携病院に転院させ、そこで緩和治療を行うシステムになっているとテレビの癌特集番組が報道していた。だとしたら妻が県立がんセンターに最初からかかったとしても、いずれは刈田病院に転院させられたであろうことを思えば、転院させられなかった残念な思いは解消したのである。
また、私の家から県立がんセンターまでは車で1時間強かかる。とても毎日行ける距離ではないが刈田病院なら10分で行ける。孫たちもしばしば行ける。娘たちは「孫たちが時々顔を見せると良くなるからそのほうがいい」と言っていた。私は「それで良くなればもちろんだが、ダメな場合はなおさらいい」と考えていた。そして毎日通った。後半からは午前も午後も夜も通った。孫たちもしばしば見舞った。妻に死なれた今、それでよかったと思っている。
● 「それで治るなら医者は取り入れているよ」は浅い考え
難病に効くという治療や薬の話題は巷間に昔も今もある。そのような話題の時に「それで治るなら医者は取り入れているよ」としたり顔に言う人がいる。私もその一人であった。その治療や薬がほんとに有効ならどこの病院も医者も取り入れている筈で、取り入れていないということは、有効ではなく治療例もまやかしであろうとする考え方で、いかにも常識的な考え方である。しかし、この常識は改めなければならないと思うようになった。ここではこの常識を通常の常識(通常常識)と深化した常識(深化常識または進化常識)と呼んで区別しよう。実際に医者にかかり、その実際を子細に検討し、考えを深めると「通常常識は常識に非ず」と認識の変更に迫られたのである。
● いい標準外治療はいっぱいある
標準治療以外の癌治療はいっぱいあり、その主なものには免疫療法、温熱療法、重陽子線療法、漢方療法、鍼灸療法、統合療法などがある。これらは補完代替療法とも呼ばれている。つまり手術、抗癌剤、放射線の三大療法が正当な療法で、それ以外はそれを補完したり代替するだけのものとする位置づけである。芝居の主役と脇役みたいなものである。
また、癌の薬は抗癌剤以外の薬もいろいろ市販されている。ほとんどが飲むタイプのものだが、薬として認可されていないので、「健康食品」とか「機能性食品」と表示され、病気に対する効能を表示することは禁止されている。主なものをあげると、アガリクス、霊芝、サメ軟骨、フコイダン、キトサン、タヒボ、ウコン、プロポリス、メシマコブ、クロレラなどがある。数年前、あるアガリクス業者が、病気が治るような表示や広告は禁止なのに、「アガリクスで末期ガンから生還」などの新聞広告を毎週といっていいくらい出して、公正取引委員会から告発され、業者と医者が罰せられたことがあった。それ以後アガリクスは影を潜め、今はフコイダンがインターネットで癌の特効薬のように宣伝されている。この他に特定保健用食品があり、健康維持に効果があるという表示は許されているものがあるが、本書では健康食品、機能性食品、特定保健用食品を一括して健康食品または民間薬と称することにする。
これら標準外治療や民間薬を使う病院をインターネットで検索してみると首都圏の私立病院でやっており、かなりな数であるが地方には殆どない。そしてそれぞれが治療効果を宣伝しているが、治療費は保険が使えないので非常に高い。
● 通常常識から深化常識へ
5年前、私が前立腺癌と診断された時はアガリクス宣伝が盛んな時だった。「ほんとに効くのかな?」とインターネットで国立がんセンターのデータを検索してみたら、アガリクスの有効性を確かめる研究がなされており、或る程度の有効性は認められるとされていた。「国立がんセンターで有効とされているのになぜ全国の公立病院で使わないのだろう?」といぶかりながら、結局、私は手を出さなかった。そしたら、公正取引委員会から、アガリクス販売業者と医者が告発されたことを知って、「手を出さなくてよかった」と思ったのである。この時点では私は通常常識の範囲に立っていた。
ところが妻の癌の治療が始まって、その先が暗いことを知ってから、「標準治療だけでは治らないかもしれないから、標準外治療もやってみたい」と思うようになった。だが、医者に無断で民間治療薬を飲ませたりして、結果が良くても悪くても、治療結果の判断に狂いが出てはまずいだろうと思い、標準治療の結果が出るまでは何もしなかった。
だが、治療の結果が少しも良くならず、かえって悪い方に進んでいることが分かった時、「こうなったら標準外治療を試すしかない」と思うようになり、「医者が何と言おうと、どうせ医者のほうで治せないのだから、私が何を試みても止めることは出来ない筈だ」と奮起し、医者に民間薬を飲ませてみたいと切り出した。そしたら「それは健康食品のたぐいでしょう。いいですよ。ボクは何も関知しませんから」とのことで、(どうせムダなのだから)と内心思っているかのような返答だった。白石市内に薬剤師の免許を持ち、病院の薬局勤務をしながら漢方薬局店を開いている西洋医学にも東洋医学にも通じている人の助言を得ながら、いろんな民間薬を飲ませようとしてみたが出来なかった。飲ませても吐いてしまうのである。通常の食事も食べられないのに、無理して民間薬を胃に流し込んでもすぐ吐いてしまうのだ。吐いてしまっては薬として効くわけもない。既に経口による薬剤治療は不可能な段階にきていた。
● 免疫療法の医者は三大療法に批判的
経口による方法がダメなら、免疫療法がいいのではないかと考えた。健康な時は癌細胞が誕生すると免疫細胞が癌細胞を阻止することによって健康が保たれている。癌になったのは免疫力が落ちたからだから免疫力を上げてやれば癌を退治できるというのが免疫療法である。一口に免疫療法と言っても、やり方によって十数種類の免疫療法がある。その内のひとつ「免疫細胞BAK療法」というものをやっている医者がなんと仙台市にいた。
*海老名卓三郎 1941年2月仙台市生まれ
*東北大学医学部卒業
*元 宮城県立がんセンター研究所免疫学部門部長
*現 免疫療法センター長・仙微研クリニック院長
この人は標準治療だけではなかなか治せないことから、「免疫細胞BAK療法」という独自の療法を開発した。それを元にした著書を数冊出している。そのうちの一冊を読んで、この人に妻を助けてもらおうと訪問し面談してみた。海老名先生は言った。「うちの治療を受ける条件はただひとつ。月に2回、外来に来て貰うことだけです」。妻は点滴を外せないし、だるさがひどいので入院しながら免疫療法は受けられないものかと聞いたら「うちでは外来による免疫療法だけで、入院等の治療は一切やっていないんです」と言われ「じゃ、ダメですねー」と引き下がるしかなかった。ただ帰るのは勿体ないのでいろいろと聞いてみた。その談話の中で先生はこんなことも言った。「標準治療で治せないことは医者が知ってますから、今、私のところに医者が10人程、治療を受けに来ていますよ」。「そうですかあー。・・・・ところで先生、先生の免疫療法はそれ程いいのに、標準治療にどうして組み入れられないのでしょうね」。
「ああ、それはね。二重盲検法のせいですよ」
「二重盲検法ですか?」
「うん、そう。基準を決める委員の連中が二重盲検法によるデータがなければダメだなんてやってるからですよ」。
二重盲検法というのは、患者群を2グループにし、一方にホントのやり方をやり、他方にはウソのやり方をやって効果を確かめる検査法のことである。
「そんなバカなことやれないですよ」と海老名先生は語気荒く言う。
なるほど、それをやれば人体実験と同じことで倫理にもとる行為だし、公立の研究機関でやった海老名先生の結果でさえ無視されるのだから、民間サイドの治療例など無視されるのは当然だ。「それで治るなら医者は取り上げているよ」ではなく、治せていても取り上げてもらえない事情があるみたいなのである。
二重盲検法で統計学的に有意なデータのものを取り上げているとすれば、狭く微々たる効果の治療法だけとなるのは当然で、それが現行の標準治療となっているのではないかと、海老名先生の話から、標準治療やら、保険適用やら、医療ガイドラインやら、医療マニュアルやらの決めかたの様子までがおぼろげながら想像できて、常識が覆されたというより深まった思いがした。また、抗癌剤を作る製薬会社は巨大企業だから、資金と組織力に物を言わせて、たいした効きもしない抗癌剤が全国の公立病院で使われるように働きかけているのではなかろうかなどとも想像してみた次第である。
● 抗癌剤は効かない
海老名先生は「抗癌剤は効かない」と明言している。権威ある公立の癌研究所にいた人が「効かない」「治せない」と言うのである。大学病院の医者も同じようなことを言った。大学病院でセカンドオピニオンを求めて面談した時、私は医者にこうたずねてみた「先生、抗癌剤で癌が消えることはあるのですか」と。医者はこう答えた「残念ながら2%~3%です」。えーっ、たった2%~3%では効かないということと同じではないかと驚いた。更にこう説明してくれた「抗癌剤の有効率は20%~30%となっています。これは癌が三分の二以上縮んだ場合のことです」。そういえば刈田病院で聞いた有効率20%~30%を、私は癌患者が治るのが20%~30%なのだと思っていた、が、なんと縮小するだけのことだったのである。ということは三分の二は残るということになり、それでは完全に消える確率は極めて小さいことになると得心した。
そして、こう思った。健康食品や機能性食品等の民間薬による治癒例を人によってはバカにし、多くの医者は無視しているが、20%~30%しか縮めることが出来ないんじゃ標準治療だって似たようなもんじゃないか、と。それなのに抗癌剤は保険適用で医者が使い、民間薬は適用外で高価である。民間薬も保険適用にすれば国の医療費がパンクすると薬事審議会では見ているのであろう。
厚生労働省がん研究助成金による「がんの代替療法の科学的検証と臨床応用に関する研究班」が行った論文の概要をインターネットで見てみると健康食品等についての見解も公表されている。それぞれの健康食品について「有効を証明する質の高い論文が見あたらない」とか「エビテンス(根拠)が無い」「現時点では有効とは結論づけられない」とし、次のように結んでいる。
「そこで、健康食品の利用に関して、絶対に覚えておいてほしい注意点を取り挙げます。
1 健康食品は、身体の中で薬と同じような働きをする可能性があります。
2 健康食品は、身体の中で他の薬との働きに影響を及ぼす可能性があります。
また、この二つに併せて、天然物質、食品・食物だからといって、それは安全であることを意味しているわけではないということも頭に入れておくべきです。健康食品の【食品】という単語の中には【食べるもの=そんなに危険なものではない】といった安心感が存在しているかもしれません。一方で、その食品が持つ健康や病気に対する効果・効能となると、雑誌やインターネットなどでは、あたかも薬かそれ以上の効果・効能に近いことが、何の検証もなされず漫然と掲載されています。そして、がん患者さんの中には【医薬品=副作用を有する危険なもの、健康食品=食べ物だから副作用がなく、どれだけ摂取しても大丈夫】といった誤解を抱いている場合も見受けられます。その結果、現代西洋医学を完全に否定し、科学的根拠のない治療法を選択して不幸な結果になることだけは、絶対に避けなければなりません」。
この研究班の警告は正しく確かにその通りだろう。だから私は医者に無断で飲ませることはしなかったのだ。だが、妻が死にそうになって、そんなことはしていられなくなった。
刈田病院の医者と民間薬や免疫療法や海老名卓三郎先生について話をした時も、やはり「エビデンスが無い」とか「国際基準に無い」とか「学問じゃない」とかの批判的な言葉が聞かれた。「学問じゃない」と聞いた時は「学問じゃなくて治療なんだけどな?」などと思ったりもした。
● 抗癌剤は発癌剤であり免疫抑制剤である
阿保徹という新潟大学歯学部総合研究所教授で免疫学の大家は抗癌剤は発癌剤であり免疫抑制剤であると言っている。どういうことかというと、抗癌剤は癌を消滅したり縮小したりするが、正常細胞にも働くので、正常細胞が変異を来たし癌化することもあるというのだ。また、癌など体内で発生した異物や、細菌やチリや花粉など体に入った異物を無害なものにする免疫細胞やリンパ球が抗癌剤よってダメージを受けるので免疫力を抑制し快復力が低下するばかりでなく、他の病気にもかかりやすくなるというのだ。また、こうも言う。抗癌剤というといかにも癌をやっつけるようで聞こえがいいが、実は体全体の細胞や組織をやっつけて、ついでに癌細胞をやっつけるようなもので、癌細胞が死んだ後、正常細胞が息を吹き返して体が元に戻ることを期待する治療法なのだそうである。だから抗癌剤の副作用こそが主作用で、癌が小さくなるのは副作用だと言っている。海老名先生の著書にも同じようなことが書いてある。なんとも恐ろしい治療法なのに、正当な治療法として認可され、全国の公立病院で大規模に展開されているのである。妻に使った抗癌剤は強い抗癌剤だそうだが、癌にはぜんぜん効かず、使用後急速に衰弱して死亡した。病気知らずの頑健な体だったのに。
● 食事療法も重視する統合医療を試したかった
病気の快復力を左右する免疫細胞の6割が、食物が腸を刺激することによって、腸管で作られ全身に行き渡るという。だから「食べられるうちは大丈夫だ」という俗説は正しい経験知なのであろう。前にテレビで見たのだが、どこかの病院が栄養点滴をやめて、どんな患者にも必ず食べられる献立を工夫し、食べさせたところ顕著な改善が見られたという。そういうことを知っていたので、妻が食事をとらずに点滴だけで過ごすことが気が気でなかった。この地方で食事療法を取り入れている病院はなく、また、ほとんどの医者は食事療法に無関心なようだ。
首都圏の或る私立病院では、髪の毛のような細い管を血管を通して癌患部まで到達させ、特殊な物質を注入して血管を塞ぎ、癌を兵糧責めにして癌退治をする動脈塞栓術という最先端の治療法に、食事療法も取り入れるなどの統合医療で実績を上げているそうなので、妻を連れて行きたいと思ったことがある。このように食事を治療の重要なひとつとする私立病院もあちこちにあるし、食事以外にもいろいろな特色ある癌専門病院もあるのだが、どこにも連れていけなかった。どこの病院が最適なのか判断がつかないし、体調が悪化した妻を退院させてまで、かつ、高額を用意してまで連れて行くべきかどうか、情報を集めながら治療の様子を見ているうちに、病状がさらに悪化し連れていくことが出来なくなってしまったのである。
● 藁をも掴かむことを愚かと思うなかれ
標準治療で効果がなく、このままでは死を待つだけとなった時、疑わしい民間治療でもやってみたいと思う気持ちになる。「そんな薬使ったってムダだよ」と言われたとしても試してみようという気持ちになる。まさに「溺れる者は藁)をも掴む思い」である。私もそういう思いになった。有り金はたいても、全時間かけても、ムダでもいいからやってみようと思った。死んだ後から、「あれをやっていたら助かったかもしれない」と悔やむよりもいいと思ったのだ。何もしないで、何もできないで死を待つことは、こちらも辛く精神的に参ってしまう。「金も時間も使えるだけ使ってしまったのだから、もうこれ以上何も出来ない」そう思うほうが楽になれるのだ。このような藁をも掴む行為を標準治療派の人たちは愚かな行為と見る向きがあるかもしれない。が、標準治療を信奉する病院や医者だって、どれほど癌患者を治しているのか怪しいのである。どこの公立病院も治療成績を公表しているが、それを見ると、5年生存率で公表している。5年以後の生存については死んでいるのか生きているのか分からないし、普通に生活出来ての生存なのか、体調不良や後遺症があっての生存なのか分からないのである。また、患者は隠れて民間薬を服用することもあるので病院の治療だけで治ったのかどうかも怪しいのだ。大学病院や一流病院で沢山の癌治療に携わった医者が後で「実は治せていなかったことを知り愕然とした」などと語ることがよくある。標準治療でほんとに治っているのかどうかは怪しいのである。したがって、ほんとに治る治療を求めて患者や家族がさまよっているのが実態なのではないのか。
だから、藁をも掴みたい思いにつけ込む悪質な医者や業者がいる一方、真摯に標準外治療に取り組んでいるNPO団体や病院や、健康食品販売業者がいるので、それらの存在は藁をも掴みたい思いに正しく応える役割を果たしているのだと思う。その標準外治療を妻にしてやることがかなわず、早々に死なれてしまったので、遺影の前で悔しい思いにかられながら「助けてやれなくてごめんな」と言うしかないのである。
● 緩和治療とはそんなことだったの?
最近の癌治療に関する病院のパンフレットには緩和治療についてのうたい文句が必ず載るようになった。病院によっては緩和病棟も設けている。癌拠点病院である県立がんセンターはもとより大学病院にも近代的な建築の緩和病棟が威容を誇っている。パンフレットなどにはこんな説明が踊っている。「当病院の緩和チームが、医療面、心理面、生活面など全般に渡ってサポートし、ハイクォリティ オブ ライフ(HQL)を提供し、患者様の人間としての尊厳の維持につとめます」。なんと格調高く大仰な表現だろうと思うが意味がよく分からない。ハイは高いでクオリティーは質、ライフは生活だから、質の高い生活を保障してあげるという意味らしい。県立がんセンターの緩和病棟を覗いてみたら、建物環境は病院よりもホテルのような感じであった。それで私は緩和治療をこんな風に想像していた。癌が進行すると痛みや副作用がひどいらしいし、心理的にも悲観的になるだろうから、痛みや副作用を薬で和らげながら、心理士などが心や気持ちを支え、相談員が医療費などの心配にも助言したりなどして、穏やかにまるでホテルで暮らすかのようにしながら癌治療を続け、かなわぬ時は、静かに末路を迎える、それが緩和治療なのだろう、なんと現代医学はそこまで進んだのかと感心していた。
ところが妻の緩和治療は、鎮痛薬と麻酔薬で眠りこけて、意識不明のまま、誰がそばにいるのかも分からず、一言も発することもなく、死んでいっただけのことだった。「なんだこれが緩和治療なのかよ」と、大仰に格調高く言われている割には、単純過ぎて意外な感じがした。でも、もし鎮痛薬や麻酔薬など使わなかったら、痛みなどで苦しみ続け、私たちもつらい思いにさらされ、本人に意識があって、自分の死が分かれば、なおさら修羅場かもしれないので、しかたないことかと思うしかない。それにしても「人間的尊厳の維持ねー、どういうことなんだろう?」と違和感は今でも消えない。
モルヒネを使ってからの意識混濁は麻薬による中毒症状なのではないのだろうか。麻薬であるモルヒネを連続投与したら中毒患者になると思うのだが問題はないのだろうか。もし病気が治ったとしても今度は麻薬中毒の問題が残ると思うのだが。・・・いやいや、もう治ることはないのだから問題にはならないということか。・・・奇跡が起きて治ったらどうするんだろう・・・。そんなことはないか・・・。どうもひっかかるんだよなあー。
第四章 妻はなぜ癌になったのか
妻は3姉妹の1番下なのに先に死んだ。年上の叔母たちもまだ生きている。「まだ71歳なのになんで先に死んだのか」と姉たちをはじめみんなが言う。妻が死んだ時、私は娘たちに言った。「あれが悪かった、これが悪かった、ああすればよかった、こうすればよかったは俺は言わないぞ。そういうこともいろいろあろうが、それも天の定めの中に含まれていることなのだと思う。母さんはそうなることになっていたんだと思うんだ・・・」と。これは運命論的な落ち付け方であり納得のしかたである。「寿命がそこまでだった」という言い方もある。しかし、元理科教師として人体の仕組みと働きを教えてきた私は、寿命や運命論だけではどうしても物足りなく、「なぜ妻は癌になったのだろう」と理科的に考えないではいられなくて、いろいろと考えてみた。それを以下に記述する。
● 病院では病気の原因は不問となっている
妻の死亡は癌が原因だが、なぜ癌になったのかについては医者と話したことがない。なぜかきく気にならないのである。その原因は、なぜ病気にかかったかについて医者側から説明された経験がないからだ。「熱が出た原因はインフルエンザウイルスです。いい抗生剤が出たので出しておきます」、「これは肺炎ですね。原因は肺炎菌ですからペニシリンを打ちましょう。一週間安静です」、こんな調子である。いかにも原因をはっきり言っているようだが、なぜウイルスに負けたのか、なぜ肺炎菌にやられたのかについて説明はない。私が五十肩のような痛みで整形外科に診て貰ったら、肩の筋肉に石灰質のものが沈着したので痛むのだと言われ、鎮痛剤が注射された。「どうしてなったのですか」ときいたら「分かりません」とあっさりした返事。どこの医者もこんな調子だ。これが漢方系や中国系の医者となると違うのだそうだ。ウイルスや肺炎菌に負けた原因を重視するし、筋肉に石灰が沈着するような食や生活を重視し、それを改善するような薬を出し、食や生活のしかたの助言をするのだそうである。しかし、私たちの周りには漢方医も中国医も見あたらない。医者や病院はほとんど全部、西洋医学一色で、そこでは病気の真の原因について医者も患者も問わないことが普通の感覚になってしまっている。だから、妻がなぜ癌になったのか問う気が起きなかったのだ。そこで、私なりに医学関係書やインターネットで拾える情報から妻が癌に冒された要因を考えみた。その主なものを以下に記述してみよう。
● 低体温体質
妻の通常の体温は35℃台であった。私たちの体は36・55℃から37・23℃にかけて細胞の新陳代謝が活発で、健康を維持し、病気を予防するが、36・3℃から36・4℃は低めの体温、36・2℃以下は低体温と言われ、体温が下がるほど体のトラブルが多くなる。癌が最も活性化する温度は35℃で、温度が上がるほど癌細胞は不活発となる。妻の体は癌が活性化しやすい低体温体質だった。また、低体温だと肌のむくみやシミ、アカギレ、肥満、肩こり、頭痛、頭重、腰痛、腹痛、生理痛、不眠、自律神経失調、ほてりと冷えなど諸症状が現れると言われているが、妻にはそのうちのいくつかが現れていた。体温の調節は脳の中央、奥深いところでやっている。ここは精神的緊張とも関係深いところで、そのことは後で述べる。
● 暑がりで冷え性
妻は暑がりだった。妻には皮下脂肪がある。脂肪は一種の断熱材なのでコートを着ているようなものであるから暑く感じてしまう。よく顔に汗をかいていた。「ほら見て、この汗」などと私の鼻先に顔を突き出す。見ると顔中汗だらけで、しずくがたっている。そのように暑がりなのに、冷え性でもあった。布団に入っているのに腰や臀(でん)部が冷たいというので触ってみると確かに冷たい。だから湯たんぽが好きだったし、ホッカイロ(携帯発熱剤)をよく持ち歩いていた。足腰は冷えているのに顔がほてるのは血流がアンバランスな証拠で、免疫力が落ちている箇所がある可能性が高い。そこに癌が発生しやすい。
● カラスの行水に水シャワー好き
妻はお風呂にゆったりと長くつからずにすぐあがるカラスの行水タイプだった。そして水シャワーが好きだった。夏などは汗をかいたからと言っては水シャワーをしょっちゅうしていた。低体温の人は体温を上げなければいけないのに、冷やしてばかりいたのである。これが癌細胞を元気づけ、免疫細胞を不活発にしたのであろうかと思う。癌治療に温熱療法というものがあるが、癌が熱に弱いので体を温めて癌を弱らせ、同時に免疫力をあげて癌退治をするやり方である。安全に体を温める大規模な機械を備えた温熱療法専門の病院もある。また、癌に効くという温泉もあるが、理にかなっており、ある程度の効果があるのは確かだろう。「湯船にきちんと入る入浴は、全身の血流よくして、全臓器、細胞の新陳代謝を促進して体温を上昇させる。また、発汗や排尿を増やして、冷えの一因となっている体内の余分な水分を排泄して、さらなる体温上昇を促してくれる。(石原結実著:体温を上げると病気は必ず治る:より)。妻がもっとゆっくりと湯につかる習慣があったら癌にならなかったかもしれない。
● 冷たい食べ物・熱い食べ物・甘い食べ物
妻は、夏、涼を求めて氷を入れた飲み物を飲んだり、ソバやソーメンに氷を落としたりして食べたものだった。外食の際、私が「暑いときは熱い物を食べるほうが涼しくなる」と言って熱いラーメンを食べる時、妻は冷やしラーメンだった。「食べ物は人肌温度で」が口癖の私は冷たいビールを嫌い、夏の家族旅行で冷やさない常温のビールをホテルで注文し家族に嫌がられた。また、妻は冬の寒い時、体が温まるようにと熱いものを食べたり、家族に出したりもよくした。
食べ物は食道を通りストレートに胃袋に落ちる。胃は常に外界の温度を持ちこまれるところなので、かなりの温度差に耐えるように出来てはいるが、やはり変化が小さいにこしたことはない。もともとは人間は動物だったので、自然界の動物が自然な温度の食べ物で生存していることを考えれば納得しやすいだろう。妻の癌は胃で発生したのではないかと医者が言ったが、この温度差に晒(さら)されて胃の細胞が癌化したのではないだろうか。そして癌化した細胞の出現に免疫細胞が気がついても、免疫細胞が活躍できる体温環境にないので、癌細胞がのさばってしまったのではないのだろうか。
アイスクリームやケーキなど、甘くて冷たいデザートは冷え性の大敵で、糖分をとりすぎると、血液中に血糖や中性脂肪が増えて、血行が悪くなり冷えを招くことになる。妻は甘いものが大好きだった。お酒がダメだった分、甘党だったが、一般に女性は甘党だからと私は気にもしなかった。いや、最近は私も甘党になったので、二人でよくソフトクリームなども食べていた。それも良くなかったかもしれない。
● 降圧剤の長期服用と頭痛薬の頻用
漢方薬は動物や植物の体を薬にした生薬だが、病院で処方される薬は化学工場で作られた化学薬品が殆どである。化学薬品は甲状腺ホルモン剤を除けば、殆どが体を冷やすと考えなければいけないのだそうだ。妻はかかりつけのA医者でずーっと何年も血圧を下げる降圧剤を飲み続けていた。そして、頭痛がするからと頭痛薬を使用することも多かった。私はテレビのコマーシャルで女性の頭痛薬使用の様子を頻繁に見ていたので無害だと思って止めもしなかった。ところがどんな薬でも薬であるからには毒を含んでいるのだという。毒性ゼロの薬は効かないのだそうで、大衆市販薬はそれに近いそうだ。降圧剤も頭痛薬も化学薬品であるし、毒性のある薬を長期に服用していたのだから、それが癌を誘発したのかもしれない。
● むくみと肥満
妻が足のすねを私の前に出して「見て!これ!」とふくらはぎなどを指で押して離す。そうすると肌がくぼんだまましばらく元に戻らない。弾力性がなく、すねが腫れぼったくてむくんでいる感じだ。それが直ちに何かの病気だとは考えなかった。体質的なもので大事にいたることはないのだろうと思っていた。が、冷え性の人はむくみやすいと知り、低体温の人は癌になりやすいと知れば、妻の低体温とむくみは癌と密接に関連していたのかもしれない。
私は妻を肥満とは見ていなくて、大柄な体格と見ていたが、住民検診では毎年「肥満」と判定されていた。低体温だと脂肪を燃焼しにくくなり、太りやすくなる。脂肪がたまるとアディポネクチンという癌増殖を抑制する酵素が作られなくなり免疫力が落ちる。低体温による免疫力低下に更に肥満による免疫力低下が加わったのだろうか。
● 異常な皮膚のシミとアカギレ
妻の手の甲から肘あたりにかけて、ごま粒大から小豆粒(あずきつぶ)大の黒いシミがびっしりと発生していた。それは右腕も左腕も同じでかなり前からだった。妻はもちろん私も気にしていた。単に醜さを気にしていたのではなく、何かの病気でなければいいがという心配だった。しかし、確かめる方法もなく、別段これといった症状も無いのでそのままになっていた。癌になった時、このシミを見ながら考えた。「シミも皮膚細胞の変形したものであろうから癌みたいなもので、シミが皮膚にいっぱい出たように、内臓で癌が出来てしまったのだろうか」。「血流が良ければシミは出来ず、血流が悪いのでシミが出来る。妻は採血の際に針が血管に刺さらなくて苦労するほど血管が細いのにもってきて、低体温だから血流が悪く、それでシミが出来たのだろう。とすれば癌が出来てもおかしくないことになる」。
また、妻は指先と踵によくアカギレができて、キズ絆を貼ったり、クリームをぬったりしていた。シモヤケやアカギレは、手や踵が血行不良によって、皮膚細胞に栄養が行き渡らないことから起こる炎症で、アカギレは乾燥した角質層の厚い部分がひび割れたものである。アカギレがよくできたということは血行不良の存在を裏付けるものであり、血行不良があったとすれば免疫低下があり、癌が誘発されたと考えることもできる。
● 慢性的な便秘
妻には頑固な便秘があり、いろんな便秘薬を試みたり浣腸を使ったりしていた。私は繊維質の多いものを食べたり水分を多めにとってみるなどを助言した。水分は助言がなくとも汗かきなのでよくとっていたが、食べ物は自分にだけ合わせるわけにもいかないので努力はしたが徹底しなかった。排泄機能を促すための運動は特にしないが、掃除や片付け、外出などで歩き回る運動で十分だったと思う。癌で入院してからも便秘で悩まされた。抗癌剤の副作用で便秘と下痢が交互に来るなど大変だった。もちろん、病院からは便秘薬も整腸剤も出されて服用していたが効き目が弱かった。
俗に「快食快眠快便は健康のあかし」とか「便秘は万病の元」と言われるように便通は健康維持に重要な意味を持っている。慢性便秘があるということは、いつも大腸・直腸が冷えていることを意味し、腹部の温度が低く癌細胞に有利な環境ということになる。また、長く便が停滞することによって有害な物質が排泄されず血流に溶け込み免疫細胞等の働きを阻害してしまうことにもなる。したがって便秘は万病の元となり、癌の誘発を招いてしまうことになったのではないか。
それでは便秘の原因はなんだろうか。それは後で述べる自覚されないストレスによる持続的な精神的緊張があり、その緊張による交感神経の持続的な緊張が臓器や器官の分泌や排泄を低下させることになる。具体的には便や尿などが排泄しにくくなり各種ホルモンの分泌に異常を来すことである。
● 歯が弱かった
妻は丈夫な人で病気で寝込むとか入院するなどしたことがない。風邪は人並みにひくが薬がよく効くし、すぐ治る。大変、丈夫な人だったが歯だけ弱かった。顎はがっしりしているのに歯が弱く、歯医者通いが長かった。そのせいなのかと思うが噛む回数が少なくすぐ飲み込んでしまう。よく噛まないと消化不良を起こしやすいのだが、そんなこともないので、胃腸が強いのだと思っていた。「よく噛む」ことには、噛む運動による脳の活性化、意志の強化、自律神経の活性化などのほか、唾液と食物を混ぜ合わせることによる消化促進はもとより、免疫力の増強がはかられ、病気を予防するばかりでなく、病気を快復させることにもつながる極めて重要な意味がある。病院によっては医師、栄養士、歯科医・歯科矯正士がチームを組み、患者の食事を改善することによって、様々な病気の治療に効果を上げているところもある。
妻が入院中、入れ歯が触るのが痛くて食べるのがひどいから、歯科医を病室に呼んでもらえないかと看護師に言って断られたことがある。歯科設備のない病室に歯科医を呼んでも治療できないからそれはしかたないことである。それで私が入れ歯を見てみたら、なんと、治療途中で入院したためか、入れ歯にとがった針金があり、それが舌や頬に触れて痛んでいた。何とか当たらないように口を動かしていたが、食欲がないのに加えて入れ歯が不自由なのでなお食べられなかった。
長い間、歯が弱いために食の取り方が悪く、そのために癌を誘発したかもしれないし、入院してからは食がとれないので、一気に死亡に向かってしまったのではなかろうか。
● 末期に発見・最悪の場所はなぜ
毎年11月頃に行われる住民検診では異常は見つからなかった。住民検診での胃癌検診はバリュウムを飲んでのX線写真で診断するが、妻の癌は胃壁外部の下方にあったので写らなかったのか、小さくて見落とされたか、それとも全く無かったのか。「具合悪いのを我慢してるから見つかるのが遅くなった」と姉たちは嘆く。妻は「少し具合悪いぐらいで大騒ぎする」と姉たちに批判的なことをよく言っていたから我慢していたのだと思われている。妻が体調不良を口にするようになったのは4月からである。「すっきりしない」「なんとなくだるい」という程度なので、癌ではないかなどと思いもしない。5月、6月と時々不調感を口にするので「どこが、どのように」不調なのか聞いても「なんとなく」とか「どこだか分からない」とはっきりしない。妻はもともと自分の考えや気持ちを明確にすることや、それを言葉で表明することが不得手だったが、体調についても同様で、私が「頭?、胸?、腹?、腰?」と選択肢を設けてやってはっきりさせるぐらいだった。「この調子では医者にかかっても問診が十分でなく大事に至ることがあるのではないか」と思ったことがあるが、それが現実になった感がある。また、痛みなどの我慢についてだが、我慢強いのではなく痛みの感じ方が弱いタイプだったと思われるのだ。私は床屋で顔に器具やタオルが当てられると分かっていても触れたとたんピクリと皮膚が動く程やや過敏である。それぐらいなので痛みも強く感じるようだ。これは私の長女が似ている。それに比べ妻は痛みなどの感じかたが薄いので我慢強く見えてしまい、他人の痛みは大げさに見えていたのではないかと思う。そのような妻でも6月末に胃あたりに、はっきりとした痛みを感じて医者に行き、癌が見つかった。だから末期近くになってしまった。
癌の場所が乳房とか肺とか胃とか子宮とか大腸末端とかなら治療しやすいのだが、妻の場合は場所が悪かった。胃外壁の下方と十二指腸と膵臓と、重要な血管などに浸潤(癌細胞が食い込んでいること)している癌だった。この場合は手術は不向きだし、放射線も不向きであるのに、更に十二指腸壁を突き破って腸内に出血しているので、食べ物はとれないし経口薬品も十分に使えない。だからここは最悪の場所なのだ。どうしてそんな場所が癌になったのかについては、前述した顔のほてりと足腰の冷えのような問題が原因として考えられる程度で、その程度しか手がかりがない。
● 自覚されないストレス
妻の死後、妻と付き合いのあった人に会うと、「奥さんは控えめで内に溜め込む人だったから癌になった」とか「自分の事より人の事を優先する人なので体に負担になった」というようなことをよく言われる。医学書を見ると多くの医者が癌の原因のひとつにストレスをあげ、特に免疫系の医者はストレスが癌の原因だと力説している。
長く一緒に暮らしてきた私としては、他の人と比べて妻が特に強いストレスに晒(さら)されたとは思えない。他のみんながやっているような並の暮らし方だった。というより、家族関係においても、社会関係においても、どちらかと言えば恵まれたほうで、嬉しい気持ちや、やり甲斐や、充実感で暮らしていたと思う。とてもストレスをこうむるような境遇でも生活環境でもなかった。では性格的な要因にあるのだろうか。
妻は陰口、愚痴、口説きを嫌い、自分でもあまり言わないほうだった。不正やごまかしを嫌い、何事にも正直に公正に当たろうとした。自己表現が不得手で、無口で、いつも聞き役にまわり、静かに微笑んでいるだけだった。それは何もないからではなくて、内心には考えや好みが厳然としてあった。だから姉妹や娘との間では口数も多く、自己主張も強かった。人への応対の丁寧さと誠実さは異常なくらいで、御用聞きや集配人にも丁寧に応接し、訪問販売人にまで労をねぎらうなどして、驚かれ感謝の表情をされていた。動作や物事の処理には、すばしっこさがなくスローで不器用だった。が、手芸や工作のような手先の作業は器用で丁寧だった。
このような妻だから精神的なストレスがあったというのは解らないではないが、すんなりとは納得できない。ましてや、だから癌になったというのは、元理科教師としては、とても分かりにくいことで、もっと人体の仕組みと働きについての説明でなければ納得できるものではない。
妻は、家事にも、娘家族や孫のサポートにも、社会的活動にも、趣味活動にも、熱心に取り組んでいた。それはいやいやながらではなく、自分の仕事として、かつ、生き甲斐として、目的意識を持ってのことだったので、ストレスを自覚することはなかったと思う。だが目的意識や使命感で「あれをやらなければ」「これもやらなければ」という思いに駆られることは精神的な緊張となる。思ったり考えたり感じたりすることは脳の中の前頭葉(ぜんとうよう)というところで行われるが、それは複雑な電子の流れによって行われている。その電流が脳の中央部分に伝えられると、神経伝達物質であるホルモンが生成され、それが交感神経という体内に張り巡らされた電線のようなものを通して、全身の血管や臓器に伝えられる。そうすると各臓器の分泌は低下し、血管が収縮し、血流が減少する。この仕組みと働きが精神的に緊張した状態ということなのであって、血流の減少により体温が下がり、それによって免疫力が低下する。この状態は普通は一時的なものだが、妻の場合は連続していたのではないのだろうか。まじめで、仕事や活動に前向きで、家族や人に奉仕的で、「やりたい」「やらなければ」と思い続け、ひとつ終わればまた次にとりかかり、不器用で丁寧だから、緊張の連続だったのではないのか。みんなから「誰でも区別なくみんなを受け入れる人だった」と言われるように、周りの人にとても気をつかう質(たち)だった。同窓生など気の合う仲間との旅行の場合とか、趣味仲間とのおしゃべり会などを例にとれば、本人も楽しく過ごし、仲間の目にも楽しんでいる妻に見えてはいるが、「人の事を優先する人」にも見える。察するに妻は、内心では意に添わないことでも受け入れようと緊張していたのではないのだろうか。そうだとすれば、それは本人に自覚されないストレスということになろう。もともとの低体温体質に自覚されないストレスが加わり、更に老化が加わり、一気に免疫力が低下し癌の増殖を許してしまったのだろうか。
この自覚されないストレスの存在は傍目には分からない。むしろ妻の生き甲斐なのだろうと好意的に見てしまう。やっていることや、やり方が、好もしく、立派にも見えるので、私も娘たちも応援こそすれ、止める気は起こらなかった。時間的にも決してオーバーしていたとは思えなかったし。
● 結局はどれも結果論
「妻が癌で死んだのはそのような運命だから」という考え方は、癌死という結果からその原因を運命とする考え方で結果論と言える。それでは物足りなくて、体の仕組みと働きから考察し原因を並べてみたが、これらも、結局のところ結果論である。例えば、癌になったのは低体温だったからと言っても、低体温だと必ず癌になるわけではなく、癌になった結果からそう考えられるというだけの話である。西洋医学はこのような曖昧さを嫌う。現代日本のほとんどの病院は西洋医学だから、そのような原因論には関心がない。
● 医療システムの変更を望む
中国には4千年来の伝統医学である「中医」がある。これを日本流にしたものが漢方医学で日本独特のものだそうだ。ちなみに、江戸時代末期にオランダの医学を取り入れたのが蘭方医学で杉田玄白らは蘭方医。そして明治維新以後、日本の医学は西洋医学だけをもって医学とし、中医と漢方医学を無視してこんにちまできた。西洋医学は対処療法に終始するのに対して、中医と漢方医学は免疫力や自己治癒力を高め、根本からの治療を目指すという。最近、躍進目覚ましい中国では、西洋医学と中医を組み合わせた「中西医結合医療」が主流になっているそうで、癌治療では日本を越すかもしれない。ちなみに日本の医者が「国際基準に準じて」などと言う国際基準とは主にアメリカの基準のようである。この度の妻の癌治療を受けてみて、西洋医学一辺倒で、かつ、かなり単純な治療の実態に驚き、もう少し東洋医学の視点を加えたらいいのではないかと思った。たとえば「西漢医療ガイドライン」とか「西漢医療マニュアル」などを策定し、健康保険を適用させ、それにのっとった医師国家試験をするなど医療システムの変更をしてほしいものだと思った。聞くところによると、近頃、大学の医学部に漢方医学科を設置する動きが増えているとのことだが望ましいことである。
● 丈夫な人は早く死ぬ
人を丈夫な人と弱い人とに分けた場合、私はどちらかと言えば弱い方に入るだろう。小さい時からけっこう病気をしたし、結婚以来45年の間、私は度々病気入院して妻に看病してもらったが、妻は病気入院など1度もない。妻が病気になったら今度は私が看病してやろう、そしたら治った暁には更にいい夫婦になれるだろうと思っていたが、妻に先立たれてしまった。よく「丈夫な人は早く死ぬ」と言われるが、その通りになってしまった。丈夫な人だから長生きし、弱い人だから早死にするのではなくて、丈夫な人が早く死ぬのはなぜなのだろう。
車に例えると、私はガタの来やすい貧弱な車なので、絶えず点検し、少し異常があればすぐ補修をして長持ちさせている状態と言えるかもしれない。妻は少々の悪路もものともせず走り、滅多に故障が来ない車なので、目に見えない金属疲労があるのも分からず走り続け、故障が来た時には廃車となってしまうような車と言えるのかもしれない。妻は自分の健康に、口には出さないが、自信があったと思う。娘もそう言う。私は自分の健康に自信がないからこそ「自分の体の声を聞きながら暮らした」。妻にはそれがなかった、あったとしても軽視しただろう。私は、弱い自分が先に死に、妻は後から死ぬものとばかり思っていた。丈夫だったほうが先に死に、弱かったほうが生き延びる例は他にも身近にある。そのことについて、元理科教師として、もう一言、理屈をこねてみよう。
小さい頃に病気をいっぱいした人は、その度に免疫のカルテが体内に書かれている。例えば、Aの風邪の時はAの免疫カルテ、Bの風邪の時はBの免疫カルテという風に、かかった病気の数だけ免疫カルテを蓄積している。年になって病気に襲われても、その病気に対抗できる免疫カルテがあるお陰で病気に冒されることはない。それに比べ、病気をしたことがない人は、免疫のカルテが体内にないものだから、体力が落ちた年になって、病気に襲われるとたちまち完敗してしまうことになる。だから丈夫な人は早死にするのだろう。
おわりに
妻の葬式が終わって一息ついたら本書を書くつもりだっ た。平成20年11月1日に葬式をやった後、何をする気も起こらず、テレビも新聞も見ないでひと月過ごし、12月に入ってから、私の作曲展のビデオだけでも見なければと思い、心にムチ打って見た。スクリーンには、私に協力していただいた人や集まっていただいた人々の姿があった。妻も写っていた。この映像記録はみんなのものにしなければならないと思い、DVDにして配る決心をした。DVDを作るのにかなり手間取ったが完成し、配り終えてから本書を書いた。一気に書いたのだが、読み直して書き加えたりしたので時間がかかり、平成21年3月にやっと完了した。
妻に死なれ一人で寝起きした今年の冬は、暖冬なのにいつもより寒く心細かった。暖かい春を迎えいくらか気持ちがふくらんだが、これから、妻の癌と闘った春から秋までの季節を迎える。その折々で妻を思い出し、その度ごとに胸詰まる思いをするのであろう。
2009年3月 お彼岸の頃 菊池嘉雄