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「化かし」について (論考)

2017年12月21日起稿~23日脱稿 菊池嘉雄 83歳

昔話の「狐の化かし」について 
 昔話に狐が化ける話や木の葉を金貨に変える話があります。これを現代の私達は「狐のだまし」と捉えているようです。また、ものごとには「真」と「偽」があり、金貨は偽で真は木の葉だという捉え方です。「捉え方」を「認識」と言い換えてもいいです。そして、ものごとには真と偽があり、そのどちらかだ、という認識に立っています。しかし「ほんとにそうだろうか?」と考えるようになりました。
 狐はだましたのではなく、人間になり、人間の暮らしをしたかったから、きれいな娘に化けて、木の葉を持参金に変えて村人に嫁入りしたのです。「そんなことをしたって、市場で金貨は木の葉だとばれるじゃないか、通用しない無理な話だよ」。そんなことはありません。村じゅうのみんなが、市場のみんなが化かされて、木の葉の金貨を金貨だと思えば狐の化かしは成立します。
 近頃はビットコインなるものが通貨としての価値を持ち始めています。今のところビットコインは偽の通貨でしょうが、世界中が使い始めれば通貨として成立します。各国の通貨は法定通貨と呼ばれ国の保障があるのに対して、ビットコインは仮想通貨と呼ばれ保障がありません。が両替の手続きがいらない、国をまたいで簡単に取引できるなど便利なので、インターネット普及に並行して効力を持ち始めています。全世界に普及すれば「偽」から「真」に化けることでしょう。
 何が真で何が偽か実は正解がありません。あるのはその時々の姿、あるいは現象、あるいは状況であって、それらは常に流動的です。
「狐は化けた」というが「人間に変身」したのです。動物としての狐、人間に変身した狐、どちらも、その時々の姿です。どちらが真でどちらが偽とは言えず、どちらも存在しているという捉え方や認識のほうが当たっているのじゃないでしょうか。みんなが狐に化かされてしまえば化かされた社会は成立するし、人間に化けた狐も幸せに暮らせるでしょう。

化学変化も「化かし」と見る
 
 水素が燃えると水になります。水素H2が酸素O2と化合して水H2Oになることを化学変化と言っていますが「化」という字を当てているところが面白いじやないですか。水素は水素、酸素は酸素、水は水で、性質も働きも全く異なる別々なものです。どちらも独立に存在するもので、どちらが真でどちらが偽でもなく、どちらが主でどちらが従でもありません。ところが独立して存在する水素と酸素が作用し合って全く別な水に変わるのですから「化けた」ということで「化」を当てたのでしょう。
 狐の話に当てはめると「狐が水素」で「人間の生活が酸素」で、狐が人間生活と出会い、化学変化を起こして「娘と金貨という水」が出来た、と少し無理な置き換えですが見ることもできるでしょう。

西洋近代合理主義による「化かし」
 
 現代の私達は理屈に合わないことを「嫌い」がちです。理屈に合わないと「分からない」と思います。理が成り立つことだけを正しいとし、理が成り立たないことは正しくないと考えがちです。
 社会も「理に合う」という「合理性」で成立し運営されています。不合理や非合理や反合理は排除されます。その最たるものは裁判であり、テレビのワイドショーでしょう。裁判では「合理的な理由が見当たらない」などと合理性がいささかでも欠けるものは排除されます。ワイドショーでは政治家の発言が字幕で映され、矛盾や合理性がほじくられます。
 私は元理科教師ですから合理が好きで、合理でものごとを見たり感じたり判断したりしてきたと思います。日常の社会生活をつつがなくこなすには、社会が合理性で動いているのだからそれでいいわけです。が、暇人 (ひまじん) となり、高齢で、人生の終盤にさしかかり、つらつら社会や世界のこれまでを通観し俯瞰してみると、私達は西洋近代合理主義の社会で生まれ育ったがゆえの合理主義信奉者に染められているのだと気付かされます。言い換えれば西洋近代合理主義による洗脳とか、洗脳では角が立つなら、教化とか、感化とか、教育とかで、合理主義信奉者になったのでしょう。また、そのような意図的なものによらなくとも、合理性が蔓延している社会に暮らせば自然と「合理性があるのが社会だ」と思うように育つでしょう。
 
 この西洋近代合理主義はフランスのデカルトから始まったようです。有名な「我思う、ゆえに我あり」は「神があるから我があるのではない、我が今こうして考えていることそのことこそが実在なのだ」と明示したのですが、これは、人間中心主義の考え方のスタートであり、合理主義のスタートとなったようです。以後、西洋ではガリレオやニュートンなどの自然科学が、数学ではユークリッド幾何学などが盛んとなり、「世界は理で出来ている」「ものごとには原因があって結果ある」などの合理主義思想が主流となり、人間は理性によって世界を合理的に推論し、その全体像を理解することができ、理性は誰もが等しく備えているので、理性の使い方を間違えないかぎり、世界についての推論は共通のゴールに達することができる、と思い込むようになったようです。
 こうした西洋合理主義が日本にももたらされ、明治、大正、昭和、平成を通じてなおいっそうの西洋合理主義社会となったようです。私達はこの流れの中に住んでいるのです。
 この経緯を少し乱暴ですが、昔話の「狐の化かし」に置き換えると、デカルトは狐で金貨は合理主義ということになります。
 哲学と数学に秀でたデカルトはそれまでの哲学や数学を検討し、納得できなくて、民族の違いや信仰の違いを越えて誰でも納得するような普遍性のあるものは何かを求めて「理性」に気がつき、理性による合理性こそが普遍性があると考えたようです。ですから「デカルト以前の哲学が木の葉」でそれを「理性による合理性という金貨」にデカルトは変えたのです。これを示された人々はその金貨に魅せられてこんにちに至った、ということのようです。この変化を私は「化かし」と言っているのです。だましたのでもなく、だまされたのでもなく、デカルトの提示を人々が受け入れたということです。学校教育のせいでそう思い込むようになったとしても、だまされたとは思っていないわけです。「化する」とはそういうことで、感化とか教化とか言っているわけです。私は物質における化学変化だけではなく「心における化学変化」もあるのだと思います。「生まれ変わって出直す」などはそれに当たるかと思います。このようなことを私は「化かし」と言っているわけです。これが「化かし」の説明ですが、もう少し補足説明します。
 私達はこのような西洋近代合理主義化した社会で暮らしており、合理は唯一、正しいものの様に思い込んでおりますが、それはどうやら怪しいのではないでしょうか。だって80余年も生きてみれば、理屈に合わないことが多いし、原因があって結果があるとは限らないしで、世の中、合理的なことよりも不合理的なことのほうが多いように思うからです。むしろ、世の中は不合理とかちぐはぐで成り立っているのではないかとさえ思います。
 科学の世界でもガリレオやニュートンの力学は古典力学と言われるようになり、アインシュタインの相対性理論やハイゼンベルグなどによる量子力学では、単純な因果律や方程式が当てはまるのは特別な場合だけで、多くは当てはまらないということが分かってきました。自然界の不確定性や流動性が明らかになったのです。なんと素粒子の世界では素粒子を見ようと光を当てると光の粒子と同等の大きさのため動いてしまい見ることが出来ないのだそうです。このように物質の根本も流動的で「常」が無く、仏教で言う「無常」と通じるものを感じます。
 数学の世界では非ユークリッド幾何学なども出てきて、私達が依存しているような合理性は自然界でも特別な場合でしかないことが分かってきました。
 自然科学の世界がそうなら人文科学の世界もそうです。人文科学とは神学、哲学、文学などですが、人間の不条理や社会のちぐはぐなどに焦点をあて、人間存在の多様性などをとりあげるようになりました。このように自然科学と人文科学の動きを見ても合理は唯一、正しいものではなく、別な世界があると思わないわけにはいかないのです。ですから、デカルトが示した理性による合理主義は、狐が持ってきた金貨のようなもので、その金貨を信奉しているのが私達であり社会なのだということになります。
 こうした、合理性を唯一、正しいものとする社会は住みよい素晴らしい社会かというと副作用とでもいうべき問題性を孕んでいます。
 まず身近なところでは「きれい事しか通らない社会」となります。政治家も言論人もジャーナリストもあらゆる階層の人が矛盾のない合理的な物言いしか出来なくなります。それは実態から離れているわけですから「きれい事」となります。ですから現状の解決や打開にはつながらず閉塞感漂う社会となります。
 更にもっと問題なのは「人間中心主義の理性による合理主義のもたらす重篤な社会問題」です。人間中心主義とは神や仏を中心とするのではなく、大自然を中心とするのでもなく、人間を中心に据えて、合理性を基に科学技術や工業を発展させる社会作りなので、地球温暖化など重篤な環境破壊問題を引き起こしてしまいます。
 また、合理主義は残酷非情な大量虐殺をもたらします。ナチスの大量虐殺、ソ連、ベトナム、朝鮮半島など社会主義建設のための大量虐殺、無差別爆撃や原爆による大量虐殺、中国文化大革命での大量虐殺など、これほどの大量虐殺は19世紀以前にはなく、西洋型近代合理主義が盛んになってからのことでした。
 今、北朝鮮の核開発で近代合理主義諸国は騒いでいますが、袋小路に入り、脱出の方途を探すも見つからず、途方に暮れている状況のようです。
 
異界の存在 
 では、理性に基ずく合理主義社会でない社会とはどんな社会なのでしょうか?。これを想像することは私には困難です。が、あえていくつか試みてみましょう。
 まず、デカルト以前の社会だったら、キリスト教社会であれば「聖書に合っているかどうか」、仏教国ならば「経典にあるかどうか」で合理か否かとなったことでしょう。裁くのは、つまり裁判官は聖職者でした。この時代の理性とは「神の意志を汲める能力」だったわけで、それを持つ聖職者は理性的な人とされたようです。この辺は仏教国では少し違いがあるようです。たとえば日本仏教には「山川草木国土衆生悉皆成仏」という教えがあります。これは大自然の営みを中心に据え、そこから人間を見ようとするスタンスのようです。
 現代ではアフリカにもテレビやスマホが普及し情報化が地球規模で進んでいますが、アマゾン奥地でいまだに現代文明から遮断され密かに暮らす民族を想像してみます。そこでは私達のような理性とか合理性は存在しないのではないでしょうか。私達とは全然違う自然観、人間観、世界観だろうと思います。どんな場合が罪となり悪となるのか、どんなことが快であり不快なのか、私達には想像できない異界のような社会かもしれません。
 異界とは自分たちが属する(と認識している)世界の外側にある世界のことですが、「合理は唯一、正しいものではなく、別な世界があると思わないわけにはいかない」としたら、その別な世界とは異界のこととなるでしょう。その異界はなにも未開地に限らず、昔から現在に至るまで、実は存在していると認識したほうがいいように思います。異界というと、魔界と見たり霊界と見たりSFの世界と見たりする物語や小説や雑誌や映画などが盛んなので胡散臭いと見がちですが、そうではなく、未開民族や秘境社会に見るような私達とは異なる異界、または古代日本から続く異界が、今、現に住んでいる社会にあるのだということです。が、それを想像したり実感することはなかなか困難です。その点、芸術的な映画では異界を描いたと思われるものがあります。最近では河瀬直美監督による映画「殯(もがり)の森」。第60回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しました。NHKが放映をしたので見てみました。介護士や老人ホームなどが出てくる現代物ですが「さっぱり分かりません」でした。ネット上の映画評論家たちも酷評だし、全国で上映されている話もききません。興業として成り立たないのでしょう。つまり大多数の人も「分からない」からだと思います。一方、黒沢映画にも異界が描かれているように思われます。特に「夢」と題する映画はそういう感じです。黒沢の意図には異界を描くつもりはないのでしょうが人間や社会を描くと必然的に異界も描いてしまうのでしょう。安部公房原作脚本・勅使河原宏監督の映画「砂の女」もまるで異界の感じがします。しかし、黒沢映画も勅使河原映画もほぼ理解できます。なぜでしょうか。それは黒沢も勅使河原も私達の側に立って描いているからだと思います。それに対して河瀨は異界側に立って映画をつくったのでしょう。たぶん河瀨という人物そのものが異界側の理性や感性の持ち主なのでしょう。そうするとなぜ私達は理解できなくなるのでしょうか。それは、私達は生まれた時から長い時間をかけて出来上がった認識のせいです。ものごとの見方も感じ方も根っから合理性で捉えるように出来てしまっておりますから、その合理性にあてはまらないことは理解出来ないし感じるとることもできなくなります。理性や感性を司るのは脳ですが、幼児期から合理性社会で育つことによって、脳内の配線がそれに適するように結線されてしまうから、そこからはずれる事柄は脳が認識も判断もできないことになります。こうして環境に染まっていくことを私は「環境による化かし」と言い、その環境の構成要素である「理性に基づく合理性」に「化かされている」と言っているわけです。「だまされている」ではないので念のため。
 一般に、自分の根っこにある理性や感性は自分で変えるのは困難なものですが、衝撃的な事柄に出会って変わることもあります。まるで別人になったかのように、今までのものごとの見方や捉え方、感じ方が変わってしまいます。それを「生まれ変わったようだ」などと言いますが、私は「心の化学変化」と捉えます。それは脳内の配線が変わったか、脳内の伝達物質が変わったかなので、化学変化というより「脳生理の変化」と言ったほうがいいかもしれません。
 また、修行とか訓練によっての「生まれ変わり」もあるようで、多くの宗教がそれを説き、勧めていますし、宗教ではない「人生道場」などと称するものもあちこちにあります。
 
 以上が「化かしに」についての説明 (論考) ですが、もう少し詳細に具体例を挙げて説明すればもっと分かりやすかったかもしれません。しかし、暮らしにも結びつかない、どうでもいいような「化かし論」を、長々読んでもらうのも気が引けるのでこれくらいにしますが、この論考は大哲学者梅原猛 (1925生) の「もの言い」と、知の巨人松岡正剛 (1944生) の「もの言い」をいささか参考にしておりますことを申し添え終わりにします。


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