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なぜ懲りないのか ~発達障害の子に「懲らしめ」は無効で有害~

洞窟おじさんこと加村一馬の事例をもとにして

2015年10月9日 菊池嘉雄81歳

 「洞窟オジさん」という本がある。この本は昭和21年生まれの加村一馬という実在の人物の実体験が物語風に書かれた本で、映画化もされ、NHKBSテレビのドラマにもなった。この本の12pに次のような文がある。

「もうしない、ごめんなさい! 父ちゃん、痛いよ! 母ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「何回言ったらわかるんだ! いい加減にしろ!」
 つまみ食いがばれると、いつも親父にげんこつで殴られ、木の棒で背中を小突かれ、何度も何度も尻を叩かれた。青あざなんてもんじゃない。体中、血がにじんでいた。親父には木の棒で思いっきりぶっ叩かれたこともあった。背中には今でもまだそのときの傷跡が残っているくらいだ。もしかしたら親父はよその父親に比べて特にひどかったわけじゃないかもしれない。その頃は、どこの家の親も悪さをした子供に対してお仕置きをしていた時代だ。叩いたり、蹴飛ばしたり、ものを投げつける父親は、特に珍しくもなかった。
 ひとつだけおれが納得いかなかったのは、うちでそんな目に遭っていたのはきょうだいでおれだけだったということだ。」

 この場面はドラマでも描かれているが、親による虐待場面とされており、加村一馬は13歳の時にこの虐待が原因で家出をしたとなっている。
 だが、昭和時代までは虐待ではなく厳しい親のしつけであった。子供がなかなかいうことを聞かない場合、厳しい罰を与えれば子供は懲りて二度としなくなるというもので、文中にもあるように、当時は珍しいことではなかったのだ。
 時代が進んだ今でも、「懲らしめ」のつもりで子供のしつけや教育に当たることは普通にあることだ。そこでこの「懲らしめ」について、心理学的に、あるいは発達学的に、あるいは脳科学的にどういうことなのか考察を加えてみようと思う。
 「懲りる」とは、何かをやってひどい目に遭った場合に、もうやるまいと思うことだ。だから普通は一回限りのことだ。ところが一馬の場合は「何回言ったらわかるんだ!」とあるように同じことが繰り返されたようだ。繰り返すから「懲りていない」と親に受け取られ「こんどこそ懲りるように」と更に厳しいお仕置きとなったのであろう。このことは一馬のほうに、繰り返してしまう何かがあったからだろう。つまり親の側に原因があるというより、一馬の側に原因があったのではないのか。そのことは本やドラマからは分からない。この本やドラマでは、空腹に耐えられず、つまみ食いしてお仕置きされたが、それは親から一馬だけ食事が十分に与えられなかったからだと、親の差別扱いが原因のように語られているのだが、これは一馬の弁であって親の弁ではない。親側に関する記述が非常に少ないので親が一馬をどう見ていたかはこの本からは分からない。
 一馬の側に何かあるのではないかと思われるもうひとつの根拠は、前記文中の「うちでそんな目に遭っていたのはきょうだいでおれだけだったということだ」と、19pにある「きょうだい8人の中でなぜおれだけが木の棒で叩かれ、墓石に縛り付けられ、食べ物もろくに与えられなかったのか、その理由はわからない」とあることだ。どうやらほかのきょうだいはお仕置きをあまり受けなかったようだ。だとすると、なぜ親は一馬にだけ厳しいお仕置きをしたのだろう。その理由を考えるには、ほかのきょうだいにはない何かが一馬にだけあったと考える方が自然だ。ではそれは何だろうと考えたときに思い浮かぶのが、近年明らかになってきた発達障害である。
 発達障害と言ってもいろんな種類の発達障害があり、それぞれに名称がある。一馬に発達障害があったとすれば、注意欠陥多動性障害(AD・HD)と高機能自閉症あるいはアスペルガー障害、そして学習障害(LD)だろう。それらが重度なら二歳~三歳頃にはっきり症状が現れるので親は気がつき異常な子と認識し、お仕置きなどする気にはならない。ところが軽度だと小学から中学の頃まで症状がはっきりせず、「ちょっと変な子だな」とか「なんでわからないだ?」とか「なんで言ったことが通じないんだ?」などといった程度だから、教えればなんとかなるだろうとか、しつければなんとかなるだろうと思い、教え込みや叱りが多くなる。が、それは殆ど効果がないので厳しいお仕置きにエスカレーしてしまうことになる。
 子供が、戸を開けても閉めない、電気をつけても消さない、物を出しても戻さない、それを直すよういくら言っても直らない場合、広い意味での注意欠陥障害が考えられる。興味があること、気が向くこと、やりたいことなど、先のことには注意が向くが、終わったことには注意がゼロとなる。つまり注意の向け方が一方にしか向けられない脳の働きになっているのだ。だから何度言われても直らない。
 高機能自閉症とかアスペルガー症候群の要素を持つ人は、興味のあることや気に入ったことにはすごくこだわりや愛着を持ち、どんな状況でもやり抜こうとしたり、変更をものすごく嫌ったりして、周りに合わせて過ごすことが苦手である。結果として言うことを聞かず繰り返す。
 更に問題なのは、そのような自分であることの自覚が無いことである。通常の人は無意識のうちに自分の基準と他者の基準をすり合わせて行動しているが、このような人は自分の基準で物事を見、捉え、感じているだけの、自分に閉ざされた行動をとるので、周りから浮いたり、外されたり、嫌われたりし、孤立することになる。
 一馬の言動からこのような発達障害があったのではないかと推察されるが明確ではない。
 成人してから、勝ち目のない殴り合いを複数回やるが、そこに見られるのは、腕を折られても挑み続ける異常な程の執拗さだ。自分の身が滅ぼされる危険を認識できず、自分の考えや感情のままに突き進む自閉症の特性と重なる。また、母のように慕う上司の女性が転勤になる際、60代後半にもなるのに、まるで子供の駄々コネのような行動をとるあたりも、アスペルガー症候群と言われる自閉症者にありがちな行動に似ている。幼いままに大人になる幼形成熟と言われるものにも似ている。
 アスペルガー症候群や注意欠陥多動性障害などの発達障害について学び、理解を深めて、ふと思うことがある。この人たちは縄文時代以前だったら障害ではなく、問題にもならなかったのではないか、と。一馬はわずか13歳から山の洞窟で犬を連れて一人暮らしを始め、山の動植物だけを食料として生き延びたのだから、まるで原始人と同様の暮らしをしたのだが、これは史上希なことで、通常の人にできることではない。一馬はそれができた。なぜか?。一馬には発達障害があったため、家庭の中では親きょうだいから、学校や地域社会にあっては同輩たちから迫害を受け、嫌気がさして洞窟生活に逃げ込んだ。通常なら短かく終わるのに、発達障害者特有の執拗なこだわり精神のために長く続いた、と解釈できよう。逆に言えば現代生活を逃げ出して、原始的生活が成立したことが、発達障害の存在を裏付けていると言えるのではないか。通常発達者なら出来ないのだから。

『塀の中の懲りない面々』という一九八七年に公開された映画がある。刑務所を舞台に、懲役囚たちの日常を描いた安部譲二の自伝的小説が映画化されたものである。私は小説を読んでもいないし映画も見てないので内容はしらないが、題が面白いので使わせてもらう。
 刑務所に収容され自由を奪われ作業を課されて暮らすことを懲役とか懲罰という。それは再犯を防ぐためのものでもある。ところが「懲りない面々」とある。つまり「懲らしめ」は効果が無く再犯を繰り返すということで、それは現実のことであろう。
 なぜ繰り返すのか?。なぜ懲りないのか?。薬物犯などは薬物依存から抜けられなくて繰り返してしまうわけだが、それ以外の場合には、単に「気持ちの問題」とか「根性の問題」などでは説明がつかず、貧しさとか孤独とか境遇や環境の問題としても説明がつかない。が、発達障害の視点で考察すると説明がつき、「懲りないということ」は「あり」ということになる。
 高機能自閉症やアスペルガー症候群など自閉症系の人は物事の見方、捉え方、感じ方に独自の基準をもっていて、それで行動する。そして、それにこだわる。変更を好まず変えようとしない。やったことが嫌われることだったり犯罪だったとしても、自分ではわからない。他者から説明され、罰を受けて「やってはいけないことらしい」とわかったとしても、それはうっすらとした知識として記憶保存されるだけで、「そうなのか!嫌われることなんだな!」とか「えーっ、犯罪になるのか!」というふうに実感を伴ったしっかりした知識とはならない。だから繰り返す。前回と似たような場面や状況になっても、大脳の前頭葉が「その言動はいけない」と保存していた知識を引っ張り出して感情系や筋肉運動系の脳に命令の信号を送って言動を抑えるのだが、保存している知識が弱くて感情系の働きのほうが強いために、抑制(ブレーキ)がかからず、「やりたい、言いたい感情」がストレートに出力されてしまう。つまり前回と同じ過ちを繰り返してしまう。脳の働きがそのようになっているのだから「懲りるということ」は起こらない。
 聖徳太子は希なる賢者で「一を聞いて十を知る人」と言われたが、発達障害の人は一を聞いて一を知る程度で、通常の人なら二から五くらいだろうか。応用力と般化力の問題がある。
 「つまみ食い」と「おかずの横取り」には、「了解なしや無断であれば盗みにあたる」ということがわからない。A=C、B=C,ならばA=B=Cとなることがわからない。だから一つのミス体験が次のミスの予防にならず、同じミスを繰り返すので「懲りない行動」となり「何度言ったらわかるんだ」と言われてしまう。般化と応用がきかないのである。
 自閉症傾向の人は想像することが大変苦手である。想像できなければ予測ということができない。これから何かをしようとするとき、先のことについて無意識的に想像し予測しながら行動して円滑な行動となっているのが通常なのだが、想像しないで行動するから行き当たりばったりとなり、円滑を欠き、常とは異なる行動=異常行動となってしまう。前回経験したミス体験をもとに想像が働けば次回のミスが防げるのだが、それが働かないから、結果として同じミスが繰り返され「懲りない行動」となってしまう。

 このように考察してみてわかることは「懲りるということ」は通常発達の人で成り立つことであって、一見、通常に見えるけれども通常ではない脳の発達に遅れや偏りのある人には、「懲りるということ」は成立しない、というより「懲りることができない」ということである。だから刑務所に入れても「懲りない面々」となるのだし、学校の教育指導も親の厳しいしつけも効果をみないのは当然と納得できるのである。
 したがって発達障害の子どもを懲らしめようとお仕置きをするなどは無意味であるばかりか、かえって悪化させる危険もある。だが発達障害が軽度であれば発達障害とは気ずかずにお仕置きをしてしまい、結果はちっとも改善されず、かえって親子関係が悪化してしまう、そういうケースは結構あるのではないかと思われるのである。               おわり
※加村一馬著「洞窟オジさん」小学館文庫
      2015年9月13日初版 630円+税

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