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いじめ問題について ~要点早分かり箇条書き~ 

も く じ
はじめに
Ⅰ これくらいは知っていたほうがいいいじめ問題対処の基礎知識 
一 はじめに
二 いじめ自殺大事件のミニ年表
三 今日のいじめ問題対処の難しさ
四 いじめ発生の土壌 
五 いじめ問題に当たる教師の類型
六 子どもを捉える留意点や方法 
七 いじめ問題に当たる教師の基本姿勢
八 いじめを予防するには
九 おわりに
Ⅱ これくらいは知っていたほうがいいいじめと発達障害の基礎知識
一  発達障害の子はいじめにあいやすいわけ
二  教師の叱りや罰がいじめと同じことになる危険
三  専門家との連携で大事なこと 
四  発達障害の要素を内包している普通人
五 発達障害を知る読み物 
Ⅲ  家庭と連携するために知っていたほうがいいこと
 はじめに
一 いじめ問題に対する家庭のあり方について
 1 とりあえずのいじめ対処 
 2 いじめられる子のサイン 
 3 声掛けでの盲点 
二 急がば回れの家庭教育 
 1 古い時代の例ふたつ 
   会津藩幼年者什の掟
  親父の小言
 2 現代の家庭内子ども文化について
三 自殺報道があったなら
Ⅳ  30年の現場実践者が綴るいじめ問題思いつくまま
おわりに 



ここから本文です。

Ⅰ これぐらいは知っていたほうがいい いじめ問題対処の基礎知識

はじめに
1 私は三十年に渡って生徒指導を勉強し凝視続けてきた。いろんな問題の中でいじめ問題ほどやっかいで難しい問題はない。(退職後も続け通算五十年を越える)
2 いじめ問題の背景には今日の社会や文化や教育の諸問題があるのでちょつとしたハウツーで解決できるものではない。したがってマニュアルを作ることは難しい。
3 今日の社会の中で教師という職業を選んでしまった以上、いじめ問題を避けてはいられないわけで、今の社会状況の中で、今の親や子どもに合わせながらベターを求めて努力するしかない。 
4 そのためには勉強しなければならないのだが、教師は忙しくなる一方で、ゆっくり読むゆとりもなければ、何を勉強すればいいのか、手がかりが無いかもしれない。
5 そのために箇条書きで読みやすく、さしあたって役立ちそうな重要事項を医者の処方箋のように以下に並べてみる。

いじめ自殺大事件のミニ年表
   
マスコミによって大きく報道されたいじめ自殺事件を年表の形にしてみると次のようになる。20年前に大騒ぎになった頃と最近のものだけを記載。この他に沢山ある。

昭和60年 水戸市の中二女子「もういじめないでね」の遺書を残した自殺事件。福島県いわき市の中三男子の自殺事件。
昭和61年 東京中野の鹿川君葬式ごっこ事件。いじめを苦に「このままでは生き地獄なっちゃうよ」の遺書を残して自殺。
平成6年 愛知県の大河内清輝君自殺事件。いじめられた様子を詳細に書いた遺書を残して自殺。
平成23年 滋賀県大津市内の市立中学校の当時二年生の男子生徒が、いじめを苦に自宅で自殺。
平成26年 仙台市立館中学校中一年男子生徒が自殺。学校は「彼は転校しました」と在校生に説明していた。
平成27年 岩手県矢巾町のJR矢幅駅で中学二年の村松亮君が列車にはねられ死亡。「生活記録ノート」にいじめの苦しみや自殺をほのめかす内容が書かれていた。
平成28年 青森県月浪岡中学校二年生の葛西りまさんが自殺。加害者生徒の実名を挙げた「遺書」がスマートフォンにあった。
平成28年 仙台市立南中山中学二年生男子生徒が自殺。自殺直前の生徒からのLINE履歴には、「無視された」「最近精神崩壊している」などがあった。
平成29年 仙台市立折立中学校二年生男子生徒が学校近くのマンションから飛び降り死亡。いじめを苦にしての自殺とされ、二人の教諭から体罰を受けていたことが大々的に報道された。

今日のいじめ問題対処の難しさ
1 いじめをやめさせようとしていじめる側を叱ると、更に見えない所で手口や方法を変えていじめる。あるいは標的にする相手を変えたりする。(ゲリラ化)
2 いじめる側もいじめられる側も友達関係にあることが多く、遊びの中で行われるので、いじめなのか遊びなのか見分けるのが難しい。(遊びの貧困化が背景にある)
3 今の子どもは先生から叱られても鈍感で恐縮しない。恐縮する程叱ると過剰に反応しショックを起こしたりするのでやりにくい。(叱られ体験の乏しさ)
4 今の保護者は過剰にいじめを不安がる傾向にあり、学校や教師を疑う傾向にある。(体制不信の時代)
5 今の子どもは善悪の判断や他者に対する感覚が年齢相応に育っていない。(発達課題の未達成)
6 LINE等ソーシャルメディアによるいじめは更に発見も対処も難しい。(子ども環境の複雑化)
7 発達障害を抱える子の指導法が確立されていない。(新しい子ども観の未構築)

いじめ発生の土壌
1悪ふざけや攻撃モデルに満ちたマスメディア
2共通した規範を持たない社会
3人間の守るべき道を教えない親の増加
4欲求不満耐性を育てにくい家庭と社会状況
5欲求不満にならざるを得ない育ち方や環境
6自然発生的な子供集団の喪失

いじめ問題に当たる教師の類型
1 昔のいじめのつもりでいる教師
 今日の深刻ないじめを知らずに、自分の少年時代のつもりで高をくくっている教師。訴えがあっても軽い助言ですましてしまう。聞き取りが弱い。
2 鍛錬主義の教師
「子どもの世界にいじめはつきもの。それを乗り越えてこそ逞しく育つのです。」と、人間は鍛えられて強くなるものだという教育観を確信的に持っている。強い根性を持つよう叱咤激励する。今日の子どものひ弱さを認めない。
3 事大主義の教師
 これは大変だと大げさに捉え、性急に且つ対処療法的に突っ込んでしまう。一方的な説教やお仕置きなどを行い子どもの不満を更に増大させてしまう。「毅然たる指導」とか「徹底した指導」をはき違えると逆効果になりかえって悪化する場合がある。 
4 無関心又は逃げ腰の教師
 関心を持とうとしない。見ても突っ込まない。子どもや親の訴えを聞き流す、或いは非常に鈍感。
5 的確に核心を捉えて臨む教師
 事実を事実として受け止め、構造解明につとめる。子どもの裏側にある真の動機や理由に視点をあてる。いじめる子は悪者だとか、加害者と被害者などと単純な割り切り方をつつしむ。

子どもを捉える留意点や方法
1 子どもの裏側の声を聴く。しゃべった言葉の裏側にある気持ちや言葉にならない表現を読みとる。
2 学級内と学級外の両面で捉える。学習時とそうでない時との違いをみる。
3 学校外での生活や遊びを捉える。全ては無理。点と点を捉えてそれをつないで見当をつける。
4 成績や点数以外の人格をみる。作業や当番などの様子をよくみる。
5 生育史で子どもを捉える。どのような育ち方をしてきたのかを知り理解を深める。
6 小学校、幼稚園では子どもと遊びを共有し、中学校や高校では私的な場面や場所を大切にして心を開いて会話する。
7 他の学級担任の見方にも耳を傾ける。
8 養護教諭、用務員の目で子どもを捉える。養教や用務員の前だけで見せる姿がある。
9 父母や地域の目で捉える。不安がっている親や地域の目。学校外の子どもの姿。
10 日誌や班ノート、生活記録などの補助手段も使い子ども理解を深める。
11 調査や検査を補助的に活用する。アンケート、悩み調査、ソシオメトリック、ゲスフーテスト、いじめチェックリストなど。

いじめ問題に当たる教師の基本姿勢
1 単なる決意や情熱ではなく、きちんとした原則や指導の筋道に沿った指導の展開に情熱を注ぐ。
2 両者及び周囲からよく聞き正確な事実を把握し、子どもがどんなものの見方や考え方をしているかを把握する。
3「いじめ行為は絶対に許さない」という断固たる姿勢を示しながら、いじめる側のイライラ感の解消や本当の正義感の方向づけを図る。継続的な指導が大切。
4 いじめられる側には断固として教師は見方であることを示しながらも、その子に努力不足や怠慢などがあればその解決に指導を加えたり、痛み、哀しみ、苦しみなどに共感したりする。多くは継続指導となる。
5 自分だけの考えや判断で当たらず、同僚、主任、教頭、校長等に相談したり伺ったりしながら当たる。
6 該当の家庭に連絡し事実を明確に伝えるとともに学校、担任等の誠意ある態度を示す。
7 日常の指導の中で、人権侵害、差別、嘲笑、侮辱、からかい等に教師自らが敏感に反応してみせ、それを排除するための筋を通した指導をしてみせる。

いじめを予防するには
1 
人間として許されない行為について授業を組み立てたり講話をし、発達の遅れを補う。
2 多様な学習を組み立てる。ビデオ、人権学習、ロールプレイなど。
3 集団遊びレクリエーションの転換を図る。いじめられっ子が生まれにくい遊び方や差別などしていられない遊び方を工夫考案して与える。
4 規律ある学級生活を強化しながら個々の子どもとつながる工夫と努力をする。例えば、声掛け、面接、添え書き、交換ノートなど。
5 心を耕すような、詩の掲示、小説やコミックの奨励、音楽や映画の鑑賞、それをもとにした話題の提示などして情操を養う。
6 悩み方の指導をする。悩みの解消よりもどう悩みとつきあうかといった生き方の指導をする。
7 話し合いが成立する学級集団を育てる。いじめ問題を安易に学級で話し合わせることは危険である。へたに話し合わせるとかえって悪くなることがある。しかし、次の条件が成立しているなら最善の方法である。
① 今まで話し合いで問題を解決してきているかどうか。
② 誰でも自由に発言できる雰囲気があるかどうか。その発言とは勝手な発言ではなく建設的発言になっているかどうか。
③ 感情的にならず意見を出し合うことができる集団になっているか。  
④ 話し合いをリードしてなんとか話し合いの軌道を守っていくリーダーが存在しているか。
⑤ 指導する教師自身が問題について方向性を持っているか。

   お わ り に

1 私が生まれた年代は昭和ひと桁である。その頃と今は違う。いじめはなかったわけではないが大騒ぎにならなかった。今ほど教師のせいにもされなかった。子どもも親も先生に敬意を払っていた。悪質な子もいたが、それは特別な子だった。状況は変わった。社会が変わり、親が変わり、子どもが変わった。
2 これからの教師は、今の子ども達と共に生きるしかない。そしてその子ども達に将来は世話になる。個人的に世話にならなくとも社会的には必ず世話になる。そのためには、現代の目で目前の子どもをしっかりと捉えながら、なんとか子どもや親に即して学校教育を続けてほしい。

Ⅱ  これくらいは知っていたほうがいいいじめと発達障害の基礎知識

発達障害の子がいじめにあいやすいわけ
  学問的には発達障害の子はいじめられやすいと断定する知見は私が知る限り見あたらない。それは学問的には発達障害の定義が曖昧であることと、いじめの定義が更に曖昧なことからデータが作れず断定するに足るエビテンス(根拠)が得られないので学問として断定を避けているからであろう。だが元学校教員として多くの子どもと接した経験から、また、自分自身の子ども時代を振り返って見れば、発達障害の子はいじめられやすいのではないかと思わざるを得ないし、インターネットで検索してみると発達障害の子であるためにいじめにあっている書き込みがたくさんあるので、今現在、子どもと向き合っている教師や親のために、参考になりそうなことを箇条書きしてみる。特別支援学級にいる子は学級内ではいじめられないが、通常学級や社会ではいじめにあいやすいと思うし、通常学級で普通と見られている子でも、発達障害の要素を内包している子はいじめにあいやすいと思うので注意して見ている必要がある。その注意点は次のようなことである。

○ 周りと同じことが出来ない。
 ほかの子たちが簡単にやつていることが出来ない、いわゆる不器用さがある。その不器用さがからかわれたり笑いものにされたりする。子どもの中には不器用な子を見てるだけで腹立たしく思ったりイライラしたりする子もいて、そういう子から暴言を浴びせられたり暴力を振るわれたりする。不器用な子はみんなと同じにやろうとしても出来ない発達の遅れやズレのせいで出来ないのであって、気持ちや意志のあるなしのせいではない。そこがわからない教師からは「みんなができるのになんでできないの、やる気があるの」と叱られたりする。
○ 遊びが上手くない。
 ADHDの子は自分勝手に動き回るので遊びがかみ合わない。自閉症スペクトラムの子は遊びのルールや相手の気持ちや動きが読めないので遊びがかみあわない。だから仲間から外されたり、嫌みを言われたする。
○ 集団のルールからはずれる。
 教室集団や仲間集団には明示されているルールや暗黙のルールがあるのだが、そのルールが理解出来なかったり、理解は出来ても、体が勝手に動いてしまい、ルールからはずれた動きをしてしまう。それが子どもたちにとっては許せないので、批判、攻撃の対象となる。教室内や学習中にあれば、秩序を維持しようとする教師の叱りの対象となる。
○ 協調性がない、というより出来ない。
 遊びにしても学習活動にしても作業にしても、他とあわせて行動することが苦手なのだが、他の子たちや教師からは協調性がないように見え、批判、攻撃、叱りなどを受けてしまう。
○ 空気が読めない。
 遊びの場で、あるいは授業の場で、その場の空気が読めないので、笑うにしても答えるにしてもみんなとズレるし、とんちんかんなことを言ってしまう。そのために冷笑や悪口の対象とされてしまう。子供らは誰かを冷笑したり誰かの悪口をいうことで優越感や同胞意識を強めたりすることがあるが、その格好の餌食となりやすい。
○ 身なりや身だしなみが乱れがち。
 ボタンがはずれているとか、着こなしが乱れているとかに自分では気がつかない。また、汚れたものを平気で着ていたり、一風変わった服を着ていたりするので、他の子からは嫌がられる。子どもには「見た目に悪いものや薄汚いものを嫌い攻撃する残酷なところ」があるのでいじめられやすくなる。
○ 気が弱く言い返せない。
 気が弱く言い返せず、おどおどしていると、いじめたくなる子どもがいて、そういう子からいじめられやすい。
○ 我をはってしまう。
 空気が読めなかったり、相手の気持ちが汲めないので、相手が怒るのが予想できず言い返してしまって、いっそう攻撃されてしまう。

二   教師の叱りや罰がいじめと同じことになる危険
  通常学級で発達障害の要素を内包している子は教師の叱りや罰を受けやすい。それを見ている他の子たちは教師の考え方ややり方を取り込んでいじめてしまう。その結果、級友からも教師からもつらい目にあわされる。それを苦痛と感じない子もいるが、苦痛と感じる子には不登校や自殺などの引き金になることもあるから、発達障害の要素を内包している子どもの特性について知っている必要がある。

○ 叱られている時にニヤニヤ笑う。
 教師から叱られているのにニヤニヤ笑ったりするので、「お前何笑っているんだ。今、何で叱られているのか分かっているのか。それともバカにしてるのか」などといっそう激しく叱られることになる。だが発達障害の要素を内包している子は緊張場面ではどうしたらいいか分からずニヤニヤ笑ってしまうのであって、悪気があるわけでもなく、反抗心があるわけでもない。そこを見誤った叱りや罰は悪い結果を招く。
○ 叱られているのに体を揺する。
 教師から説諭や叱りを受けている時に体を揺すったりして教師の心証を害しやすい。定型発達の子は叱られ場面では恐縮のポーズでじっとしている。発達障害の要素を内包している子は普段も体を揺することがよくある。叱られるなどの緊張場面ではそれがいっそうひどくなり、緊張解消しようと体を揺する。それを「教師の叱りを受け止めていない」とか「教師をなめている」などと見誤って強い叱りや罰を与えるとかえって悪くなる。
○ 説諭や叱りに言い返しをする。
「お前何回言ったら分かるんだ、これで3回目だぞ」「いいえ4回目です」。自閉症スペクトラムっぽい子は、回数にこだわるところがあるので、一つでも違うことは気分の悪いことであり、しかも相手の気持ちを斟酌しんしゃくする能力に乏しいので、率直に口にしてしまう。反抗するつもりは全くないのだが、それが分からず強い叱りや罰を与えると教師と子どもの関係はいっそうかみ合わなくなりうまくいかなくなってしまう。
○ 過ちを繰り返し、懲りるということが出来ない。
 小学3年生の子が教具の洗濯ばさみを各教室から持ち帰っていたことがわかり、教師から悪い事であると教えられたが、次からはカラーペンを持ち帰っていた。自閉症傾向のある子は、洗濯ばさみを持ち帰ることは盗みに当たる悪い事なのだと教えられてその時は理解したとしても、それは洗濯ばさみだけの事として理解し、「どんな場合でも了解もなしに他人のものを持ち帰ることは盗みになる」と抽象化して理解し記憶する能力に欠けるのでカラーペンで同じ過ちをしてしまうのである。一つの経験が学習となり、似たようなことに汎化する能力がないので、似たような過ちを繰り返えしてしまい、叱られても記憶していないので懲りるということが出来ない。だから「まだ懲りないのか」と更に罰を強化してもあまり効果がないのである。
○ 予測する想像力が弱いので過ちを繰り返す
 自閉症傾向の人は想像することが大変苦手である。想像できなければ予測ということができない。これから何かをしようとするとき、先のことについて無意識的に想像し予測しながら行動して円滑な行動となっているのが通常なのだが、想像しないで行動するから行き当たりばったりとなり、円滑を欠き、常とは異なる行動=異常行動となってしまう。前回経験したミス体験をもとに想像が働けば次回のミスが防げるのだが、それが働かないから、結果として同じミスが繰り返され「懲りない行動」となってしまう。したがって発達障害の子どもを懲らしめようとお仕置きをするなどは無意味であるばかりか、かえって悪化させる危険がある。発達障害が軽度であれば発達障害とは気ずかずにお仕置きを続けてしまい、結果はちっとも改善されず、かえって師弟関係や親子関係が険悪となりその後がうまくいかなくなりやすい。
○ 注意喚起が入らない
 子どもが、戸を開けても閉めない、電気をつけても消さない、物を出しても戻さない、それを直すよういくら言っても直らない場合、注意欠陥障害が考えられる。興味があること、気が向くこと、やりたいことなど、先のことには注意が向くが、終わったことには注意がゼロとなる。つまり注意の向け方が一方にしか働かないのだ。だから何度言われても直らず教師や親の注意喚起が入らない。「心がけが悪い」「何度言ったらなおる」「馬鹿者」などとしかり続ければいじけてしまったり、どうしたらいいか分からずパニックを起こしたりなどの二次障害へ発展する危険もある。

三  専門家との連携で大事なこと
    児童精神科医など専門家との連携に当たっては、正しく知っていないと互いの認識のズレでうまく行かないことがあるので、ぜひ知っていたほうがいいことがある。
○ 発達障害という言葉について
 障害という言葉は身体医学と精神医学では意味が違っている。例えば身体医学で肝障害と言えば、身体不調の原因は肝臓であり、そこを治療すれば治すことが可能であることが肝障害という言葉の中に含まれている。これに対して発達障害とは原語ではDevelopmental-disordersで、精神障害はMental-disordersである。Developは「発達の」で、Mentalは「精神の」であり、ordersとは「順序」であり、disは否定の接頭語であるから、発達障害とは「発達の順序からズレている状態」と示しているだけなのであって、ズレの原因は示していないし、治療の方法も含まれてはいないのである。
○ 発達障害の診断について
 教師は専門家の診断を求めがちだが、上述のように単に状態(症状)を示しているだけなので、教師が「発達障害ではないか」と思っていることと医師の診断はさほどの違いはないのである。また、何の発達障害なのか、ADHDなのか自閉症なのか学習障害なのかの診断も身体医学における検査のように特定できるものはなく、心理検査、問診、経過観察などで絞り込むのであって、犯罪捜査における状況証拠みたいなもので、教師や親からの聞き取りと経過観察で確定して行くことになる。
○ 専門家の診断基準について
 精神科医が診断する基準は二つある。ひとつはWHOのICD(International Statistical Classification of Diseases and RelatedHealthProblems)で、もうひとつは米国精神医学会が発行する精神疾患の分類と診断の手引き書DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)の二つである。このICDもDSMも発達の遅れやズレの状態を分類しただけのものであり、診断名をつけるとは、この分類のどれに当たるかを決めることで、診断名がついたからといって、障害の原因が分かるわけでもないし、治す方法が分かるわけでもないのである。そして、発達の遅れやズレの状態は複雑に絡まり合っていることが多いので、実は一つの診断名では実体に合わないことにもなるが、診断の決まりや、行政手続き上一つの診断名にしなければならないなどの理由であえて一つの診断名にしているだけなのである。だから身体医学に比べればかなり曖昧な基準であり診断名なのである。DSMなどは改訂を繰り返しているので、医師がどの改訂版によったかでも多少の違いが出ることになる。それでなくても医師の違いによる見立ての違いがあるのが精神科だと言われている。
○ 教師や親は診断名だけで考えてはいけない
 特別支援校に入れたり、特別支援の行政サービスを受けるには専門機関での診断名は必要だが、教師や親はその診断名だけにとらわれてはいけない。前述したように曖昧さが含まれているし、重複していることが多いので一つの診断名にとらわれることなく実際場面で指導や養育を模索しなければならないのである。
○ 医療に丸投げでは進展がおぼつかない
 教師はともすれば「診断がついた病気なのだから指導ができない」と思いがちだが、前述で説明したように病気というより発達の遅れやズレなのであって、広い意味の個性とかその子の特性の問題なのである。遅れやズレが重度であれば就学時の段階で特別支援校や学級にいっているのであって、通常学級にいれば通常の子なのだから「診断がついたから指導の枠外」としてしまうのでは指導がなくなり、放置されることになってしまう。その結果その子の問題も、周りをとりまく子どもとの関係も改善されず良い方への進展はおぼつかなくなる。
○ 通常校や通常社会にいる人の軽度発達障害について
 平成17年に発達障害者支援法を立ち上げ、文科省が特別支援教育を打ち出した頃は、発達障害児はクラス内に6パーセント程度と言われていたが、その後、認識が普及し臨床家が取り組むようになって、実は「障害とは呼べない軽度の人はもっといる」と認識されるようになってきた。それで臨床の第一人者の杉山登志郎医師は「発達凸(でこ)凹(ぼこ)」と言い始めた。病気とか障害というより発達がデコボコしてるだけと捉えようとする主張である。もう一人の臨床豊富な本田秀夫は「自閉症スペクトラム」は巷間に十人に一人はいる感じだと本に書いている。だから通常学級の中に軽度の遅れやズレなどのデコボコを抱えている子がいるのではないかという視点で児童生徒に接する配慮が必要なのである。ということは安易な叱りや罰は慎み、ましてや体罰は危険であると認識しなければならないのである。

四  発達障害の要素を内包している普通人
 
ここでの普通人とは発達障害の要素を内包しながらも普通に社会生活をしている人という意味での普通人である。前述したように社会生活が一応出来ていれば発達障害者とは言わないのである。誰でも知っている人を例示しよう。
 タラちゃんはテレビアニメサザエさんに出てくる三歳児で実在ではないが、説明に使えるキャラクターだ。タラちゃんの言葉遣いはデスマス調でやたら丁寧だが年齢にふさわしくない。それは自閉症スペクトラムのペダントリーにあたるし、誰かの言葉の後に同じ言葉を言うことがよくあるが、あれは幼児エコラリアだろう。
 そしてカツオだが、あの落ち着きのなさと物忘れと無神経な物言いで、しょっちゅう先生と父親の波平から叱られているあたりはADHDっぽいし、アスペルガーっぽい感じだ。つまり混在型だ。
 映画「男はつらいよ」の寅さんも実在の人ではないが例示に便利だ。あの落ち着きのなさと衝動性、そそっかしくて失敗しやすいところはADHDっぽい。また場の空気を読み間違えたり、相手の心を考えずに、いや寅さんは考えたつもりなのだが、言うことが相手に伝わらなくて、いつもすれちがってしまうところは、アスペルガーっぼい感じがする。なおここではアスペルガーも自閉症スペクトラムも同じものとしている。
 黒柳徹子は小学生の頃、授業中に窓の外に気が取られやすいことから「窓際のトットちゃん」と言われたらしい。授業に集中できないことから公立学校からトモエ学園という私立学校に転校せざるを得なくなったようだ。成人した今も、お店に行き、目についたバックがあると近寄りバックを手にし「これいいわね!これ下さい」と金を払って、持っていったバックはそこへ置いたまま店を出てしまう、と付き人がテレビで語っていた。新しいバックだけに気をとられ、持って行ったバックは意識から消えてしまい、次の行動のほうにだけ注意が移ってしまっているあたりはいかにもADHDっぽい。
 アメリカの人気俳優トム・クルーズは学習障害の難読症を抱えており、子どもの頃は特殊学級生だった。俳優をやるに当たって台本は誰かに読んで貰って台詞を覚えるのだそうだ。自ら発達障害者が描かれた映画「レインマン」に出演したり、学習障害児への支援活動にも取り組んでいる。2003年8月には、映画「ラストサムライ」の宣伝のために来日した際、首相官邸の小泉純一郎首相を表敬訪問し、日本の若者たちにと「学び方がわかる本」という学習障害を克服する本を首相に手渡したりしている。
 アメリカの発明王エジソンは学校からもてあまされ学校には通わないでしまったほどひどかった。それは今ではADHDだったとされている。それで日本にも「えじそんくらぶ」というADHDのNPO法人があり、啓発活動や支援活動を活発に行っている。 
 
五 発達障害を知るための読み物
   発達障害の人が自らの体験を書いた本を読むと、どんな風に障害なのか、どんふうに辛いのか、どんないじめにあうのかなどがよく分かる。学術書的なものは読みこなすのが大変だし、時間的精神的にも取っつきにくいが、体験本や物語本、またはコミック本などは取っつきやすくて分かりやすい。最近はインターネット検索をすると、そのような本が紹介されているので探しやすくて求めやすくなった。体験本などの読み物だけでなく、発達障害の解説記事も多いので最新の情報を入手しやすい。ただし玉石混ぎょくせきこんこうなので鵜呑みにせず取捨選択する用心深さが必要である。私が最近読んだものの中からお薦めのもの一冊挙げておく。これは本人の他に母親と主治医も書いていて具体的に参考になる良書である。この本の中にもいじめられたことが書かれてあるので、そこを目をこらして読んだ方がよい。実名で事実をありのまに書いて世の理解を求めようとしている栗原親子のためにも。
○  栗原類著「発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由」KADOKAWA \1296円

Ⅲ 家庭と連携するために知っていたほうがいいこと 

 はじめに 
 家庭がいじめ問題にどう対処したらいいかについて、学校の教師として保護者と連携にあたる場合、助言を求められることもあるだろうし、教師の方から家庭のあり方を情報提供として語る場合もあるだろう。その場合に役立つ基本的な事項を列挙してみる。これを「親がしなければならないこと」として上から目線で語るのでは反感を買い良好な信頼関係が結べない恐れもある。相手を見ながらの情報提供という姿勢が大事である。

一 いじめ問題に対する家庭のあり方について

 いじめ問題については「子どもの社会にも成人の社会にもいじめはつきもの。子ども時代に少々のいじめを経験するほうが将来のためにはよい」とする楽観視あるいは必要悪論が以前はあった。しかし、今のいじめはタチが悪く非常に心に傷を受け自殺に走ったりするので、たかをくくるのではなく、やたら深刻になるのでもなく、冷静にきちんと対処する必要がある。

1 とりあえずのいじめ対処

 もし自分の子にいじめ問題があると分かったら、最近は行政も学校も相談体制の整備にいっそう力を入れだしたので、相談を持ち込んでみたほうがよい。その際大事なことは次のことである。 
①  感情的にならないこと。
②  事実関係の把握につとめること。
③  いじめられる側であれば救済の仕方について具体的に相談すること。
④  いじめる側であれば、グループの規模や動機及びやめさせる方法について具体的に相談すること。
⑤  学校側を責任追求する姿勢でなく、両者で力を合わせて「迷路を脱出」する姿勢であたること。
⑥  後にも先にも最も大切なことは、子ども達の言うことに耳を傾け、子ども達の物の見方や考え方を知り、解決の鍵をその中から探すこと。

    このように項目的に並べるといかにもスムーズに事が運びそうだが、実際はそう簡単ではない。いじめられる子は高学年になるほど、教師にはもちろん親にも言わない。ひた隠しに隠す。その理由はおよそ次のようなことである。
①  「チクッた」と更にいじめられる恐れ。
②  教師や親に言っても無駄だと思っている。
③  仲間外れになる怖さ。教師や親よりも仲間が大切で、なんとか関係を続けたい。
④  強者への憧れや羨望感、場合によっては庇ってもらえるという打算などもある。
⑤  先生や親に言う奴は情けない奴。自分はいじめらっ子だとは思いたくないプライドがある。
⑥  親、兄弟姉妹に言うより死んだほうがましだなどと思ったりする。

 このような理由で話したがらないので、聞き出すのは容易ではない。また、小学校低学年の場合は「いじめられた」などとよく訴えるが、聞いてみるとさほどのことでないこともある。
    遊び型いじめの場合は被害者と加害者が交替したり、いじめなのか遊びなのか子どもたちにも明確な自覚がないので、その辺を念頭に置きながら聞き出さないと事実関係の確認がはかどらないことになる。

2 いじめられる子のサイン

    いじめを子どもが訴えてきた場合、後述のいじめの様子と照合しながら聞き取ると、様子や程度が分かり的確に把握できるだろう。問題なのは隠している場合である。その場合には子どもの言動に何らかのサインがあるので、それを見つけることが大切なのだが、そのサインとはおよそ次のようなことである。
〇  口数が少なくなり、元気がなくなる。
〇  衣服が汚れたり、けがをしてくることがある。
〇  持ち物をなくして帰ることがある。
〇  頭痛腹痛などを訴え登校をしぶるようになる。
〇  食欲がなくなり部屋にとじこもるようになる。
〇  友達の話をしなくなる。
〇  委員などをやめたいと言いだす。
〇「生まれ変わりたい」などともらす。
〇  不審な電話や手紙や紙切れがあったりする。
〇  いらいら、おどおどと落ち着きなくなる。
〇  人に接する態度が堅くなる。
〇  う わ言をいったり不眠になったりする。
〇  金品を持ち出したりするようになる。
〇  刃物など隠し持ったりするようになる。

3 声掛けでの盲点

「とにかく、人様に迷惑をかけるようなことだけはするなと言ってます」と胸を張る親がいるが、これには盲点がある。子どもはどんなことが迷惑になるのか分かっていなければ、迷惑をかけていても「うんわかった、迷惑かけていないよ」などと答える。それを聞いて親は「うんそれならいいよ」などと子ともに教えたつもりになってしまう。
 いじめについても「いじめるんじゃないよ」「いじめられていないか?」だけの声掛けではあまり効果がないと思ったほうがよい。やはり何がいじめになるかについての会話がなければならない。そのためには、今の子たちのいじめの様子を知っていることが役に立つ。

二 急がば回れの家庭教育
   
    いじめがあれば、即、対処しなければならないがそれは一時的なもので、永続性のあるいじめ対策とは実は急がば回れなのである。

1 古い時代の例ふたつ
   
 藩政時代、会津藩の学校である日新館へ入学する前の六歳から九歳までの子ども達へ、徹底的に教え込んだものがある。

  会津藩幼年者じゅうの掟
年長者(としうえ)の言うことには背いてはなりませぬ
年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
弱い者をいぢめてはなりませぬ
戸外で物を食べてはなりませぬ
戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

    一方、庶民のほうにもそれなりの処世訓があり、それぞれの家で口やかましく教えていたようである。それを誰が書きとめたものか分からないが「親父の小言」と見出しをつけ一覧表にしたものがある。

    親父の小言
朝きげんよくしろ     
風ふきに遠出するな
人には腹を立てるな    
年寄りはいたわれ
恩は遠くからかへせ    
子の言うこと八九きくな
人には馬鹿にされていろ
初心は忘れるな 
年忌法事をしろ
借りては使うな
家業には精を出せ
不吉は言うべからず
働いて儲けて使へ  
難渋な人にほどこせ
女房は早くもて
義理は欠かすな
ばくちは決して打つな
大酒は飲むな
大めしは喰うな
判事はきつく断れ
自らに過信するな  
貧乏は苦にするな 
火事は覚悟しておけ
水は絶やさぬようにしろ
戸締まりに気をつけろ  
怪我と災い恥と思へ
拾はば届け身につけるな  
小商もの値切るな
何事も身分相応にしろ
産前産後大切にしろ
泣き言は言うな
万事に気を配れ
神仏をよく拝め
病気は仰山にしろ
人の苦労は助けてやれ
家内は笑うて暮らせ
火は粗末にするな
(時代、出典、不明)

    ふたつとも、その時代のあるべき人の道を具体的に幼児の頃から吹き込んでおり、大方が共通の認識を持って社会を形成していたので、そうした社会に育つ子ども達に、現代のようないじめ遊びは発生しなかっただろうし、親もさほど心配しないですんだであろう。いじめの楽観視や必要悪論はこの流れの延長線上にあるのだろう。
    現代は価値観多様化の時代などと言うが、あるべき人の道はそう多様なものであるはずがない。そこで筆者も「親父の小言」を茶の間に掲示し、折に触れ子どもらに解説をした。子どもらが長じて若者になったとき、友人と「親父の小言」を懐かしく話題にしたとのことである。また若者で賑わう仙台の居酒屋で「親父の小言」が畳大に拡大印刷されて入り口付近に掲示してあったが、若者に受けているからこその掲示であろう。酒を飲みながら「親父の小言」に、若者は、いや年輩も規範なき現代社会を生きる不安の中で一抹の安らぎを求めているのだろう。
 いじめ予防の基本はいじめ遊びを嫌う感性の子どもの育成にある。戒律も規範もない家庭や社会は迷いやすく、感性も狂いやすい。現代版「人の道」を各家庭が教え示す研究と努力をすることは、急がば回れの結果を生むものと思われる。

2 現代の家庭内子ども文化について

 食事、言葉使い、読み物や絵本、テレビなど家庭内の子ども文化を形成する要因は沢山あるが、ここではテレビのお笑い番組を特に問題にしたい。
   今のお笑い番組の大半は、顔の美醜や体型の良し悪しを話題にしたり、ささいな言葉のミスを笑ったり、ドジを面白がったり、揚げ足をとったりして楽しむ様子を放映している。また、偽の場面に誘ってドッキリさせたり、無理なことをさせて苦しむ様子を眺めて楽しんだり、顔面にケーキを貼りつけたり、ひどい物を食べさせたりして喜んでいる。やられるほうも全然めげずに、やはり楽しそうに笑っている。少々のミスや欠点は明るく笑いとばして、元気に生きる姿を見せているつもりかもしれない。出演者はタレント達だがまるで普通人のようにやっているように放映される。ここに大変な落とし穴がある。
 学校で子ども達を見ていると、これを真似していることが分かる。磨き上げた漫才師や落語家の笑いを子供たちは真似しようとはしないが、今のテレビのお笑い番組は日常性を装っているものだから、流行のファッションを追うように子ども達は自分たちの日常生活に取り入れてしまうのである。いじめられて笑っているタレントはスタジオの中でのことであり、役割演技上のことでもあるので明るく笑いとばしていられるけれど、学校や地域社会にいる子ども達の場合はたまったものではない。「このままでは生き地獄」となってしまうのである。
 今のお笑い番組を親子で喜んで見ているようでは、いじめ遊びを嫌う感性も、人の尊厳に気づく感性も、人権感覚も、養い育成することはできない、見てもいいから、これでいいのかを考えさせる家庭教育でなければならない。
 
四 自殺報道があったなら

     昭和五十四年、国際児童年のさなかに子どもの自殺があり、国際児童年でもあるのでマスコミの報道は激しかったが、子どもの自殺が相次いで起こってしまった。昭和六十年頃も子どもの自殺が連続し報道が過熱気味だった。平成六年の大河内君自殺事件報道は史上最大の過熱報道と言ってよいだろう。この時も半月たらずの間に子どもの自殺が相次いだ。このように報道があると、増えこそすれ、抑止効果はないようである。このことについて、日本自殺予防学会が指摘し、マスコミに警告し、自粛を要請しているのだが、一般の人も気がつき、次のような新聞投書もあった。

     「自殺美化」見直しを
 いじめを苦にして自殺した中学生のニュースを、テレビが放映している。
彼がきのうまで地獄だと思っていた教室の自分の机の上に美しい花が飾られ、先生は「おとなしい、優秀な生徒だった」と涙ぐむ。彼がいじめられるのをそばで黙ってみていた級友も、悲しそうに泣いてくれている。
 告別式の映像では彼の写真が飾られ、クラスのみんなが彼に頭を下げている。テレビのリポーターは「この子の苦しみを、学校側はなぜ事前に察知できなかったか」と叱ってくれた。
 今学校で無視され、いじめられて苦しんでいる子どもたちは「自分が死んだら、あのテレビの主役になれて、皆から同情され、頭を下げてもらえる」と思うようになっても不思議ではない。 以下略
 平成八年二月十五日河北新報 五九歳 男

  子ども自殺のニュースがあったら、家庭では親子で見ながら指導する必要がある。その際、死んだ子への理解や同情をしてみせることは、きれい過ぎて危険である。死ぬことの愚かさ、無責任さ、カッコ悪さ、家族へのダメージなどについてリアルに理解させることが大切だ。思いやりの心を育てるつもりで安易な同情をしてみせていると反対の結果になることがあるから注意しなければならない。

Ⅳ 30年の現場実践者が綴るいじめ問題思いつくまま

     「いじめ」という用語

 昭和九年(1934年)生まれの私の子ども時代、いじめという言葉はあったが深刻な響きはなかった。今は「いじめ防止対策推進法(2013年施行)」などという法律を国が制定するほど深刻な問題となった。いじめとは何かという定義はとても難しくて文科省も何回も定義し直したし、警察等ほかの機関団体もそれぞれ定義をし直している。教師も実際に学校現場で子どもを見ていると、どこからがふざけでどこからがいじめなのか一見分かりにくいところがある。だが現場教師としては定義の曖昧さにこだわってはいられないし、いじめの存在に無関心ではいられないわけで、今の教師はそこがとても大変なところだと思う。

 いじめ発見の鍵

 各機関団体のいじめの決め方に「苦しんでいること」が共通に入っているが、いじめ発見の場合これが曲者くせものである。
 苦痛はその人間の内側の状態なので分かりにくいのに加えて、否定されたり、なんでもないかのように演じたりされると、いじめは無いと判断してしまったりする。また、いじめられているのに苦痛に感じていない場合もある。強者に憧れ、その庇護ひごの下にあることを喜び、誇りに思っている子などは、使い走りを喜んで行う。そうした状態ならいじめではないとする人もいる。本人が苦痛を感じていなければ、また訴えがなければいじめと見ないのでは、いじめ発見も指導も難しい。
 いじめ発見の鍵は日頃の観察にある。顔色表情、遊び方、交友関係、衣服の状態、金銭や所持品などなど、教師として親としてどれだけ見ているかによる。そして、その次にどれだけ聞き出せるのかによる。普段、ほとんど放任状態なのに突然聞き込み迫っても無理である。
 語ろうとしないいじめを聞き出そうとするよりは、まずは、現象面を見ることである。その結果、苦しみ悩んでいなくとも、いじめられていると言わなくとも、正しくない行為や遊びならば指導を開始しなければならないのである。
   
   いじめ根絶について

 根絶とは根絶やしにして完全になくなることである。いじめ根絶を口にするのは、教育行政サイドの人、新進教育評論家、子ども時代を忘れた人の順である。行政家は根絶可能との信念でものを言わなければならない立場だし、新進評論家はキャリア不足なのに売り込まなければ生活出来ないのだから耳障りのいい物言いになるのは当然だし、自分の子どもの頃を忘れてしまつた人は単純な物言いになるのも自然である。
 根絶を口にしない人は、作家、心理学系の人、現場学校教師、いじめ体験者たちである。作家や心理学者は現実の人間そのものを追求している人たちであり、学校教師は日々現実の子どもと相まみえて生活しており、子ども時代にいじめる側またはいじめられる側にあつた自覚を持つ人たちは、「いじめは根絶できる」などとは軽々しく口にしない。できないのである。
 いじめ防止の本を読んだり、誰かの主張を聞く場合はこのことを配慮して読んだり聞いたりするほうがよい。

 私の教員生活を振り返って
 
 私が教員になって教えた人たちはもう既に五十代に入った人たちもいる。この人たちの思い出話や告白話に、私あるいは私たち教師に隠していた非行や悪さの話がある。授業中、私の目を盗んでいたずらしたことや、私に難問を出して時間稼ぎをして面白がったことを告白する。私としては生徒を掌握し指導しきっていたつもりだったが、生徒に遊ばれることもあったのかも知れない。
 六十歳を過ぎた私に四十八歳になる教え子が我が家にきて「実は私たちこんな悪いことしてたんです」などと述懐する。私の目には実に優秀でまじめだった生徒がである。生徒から見てくそまじめな私は、愛すべき印象に残る教師だったのかもしれない。生徒も親になり五十の声を聞いて当時の教師が懐かしくなり、わさわざ訪ねて話すことが当時おこなった悪さである。もし、当時私が、私の目を盗んだことや、隠し行為をあばいていたなら、こうして訪ねてくるだろうか。少年時代の愚行や非行を知られている人は避けたいものであるし、自分から愚行や非行を語ることは構わないが、他人から語られることは嫌なものである。

 いじめの総点検と言うが

 「いじめを総点検せよ」とか「またしても教師は子どもの行為を見抜けなかった」などとの号令や糾弾が、今飛び交っているが、それは、一人一人の子どもの心の中を百%わかれとか、子どもの生活行動を全て把握しろということではない。そんなことはおよそ不可能なことだし、もし出来たら不気味なことだ。プライバシーが全くなくなり人権侵害も起こりかねない。 
 「学校施設の危険箇所を総点検して」なら出来るし、しなければならない。そのように物的管理をする目で人間を見ることはよくない。そのようなことを続けると教師と生徒、親と子の間の心のつながり具合がぎくしゃくすることになる。いじめがあるのではないかとの問題意識を持つことは大切だが、それは疑いの眼差しを常に強烈に向けることとは違う。
  
 清見きよみ・寄り添い・傾聴けいちょう

 子どもを見る目に清見きよみ裏見うらみがあると先輩教師から教わったことがある。仏教用語らしい。清見とは子どもを何事につけ良く見ようとする見方で、裏見は「なにか悪いことをしているのではないか」などと常に裏側から見る見方のことである。
 ドイツの実存哲学者ボルノーも「人間学的に見た教育学」玉川出版昭和四四年第一刷の中に次のように書いている。
 「教師が子どもを、立派で、信頼できる、やる気十分なものと見なせば、同時にそれに応じた性格が子どものなかに目覚めて強められる。しかし同じように、また逆のことも言えるのである。教育者が子どもを嘘つきで、怠け者で、陰険いんけんだとみなせば、子どもはそれに抵抗できずに、教育者が疑ったとおりに間違いなく、嘘つきで、怠け者で、陰険になる」。
 教育者を親と置き換えても同じ事が言える。だから教師も親も清見を大前提にしながら「いじめ点検」にあたることが極めて大切なのである。清見で寄り添いながら子どもの言うことに耳を傾ければ、真実は聞き出せるし、少なくとも、子どもの心がどんな状態にあるかぐらいは見当つけられるのである。それを傾聴けいちょうと言う。
 教育相談とかカウンセリング的な指導は昭和五十年代の暴力非行時代は軽視されたが、いじめ・不登校時代の今、再び重視されるようになったのは「清見で見、寄り添いながら、耳を傾け、方向づけを図(はか)る」ことと同じだからである。
 私はこの手法で多くの問題を抱える子どもと接したが、隠さずに話して貰えた経験がたくさんある。脅しや引っかけで自白させるやりかたには隠し通しても、清見傾聴には真実を吐露とろすることも事実としてあるのである。脅しや引っかけで自白させた場合、子どもは恨みや敵意を抱いたりし、ひいてはおとな不信になっていることがよくある。脅しや引っかけで自白を引き出し学校の体面を保っても、やがて子どもから反撃される危険を内包することになる。 

 私たちが厳しく臨んだこと

 昭和三十年代、私がまだ二十代の青年教師の頃は、「努力しようのない欠点をあげつらう行為」は厳しく指導したものだった。例えば、顔の美醜、肢体不自由などをからかう子どもがいると、真っ赤になって叱ったものだった。ただならぬこちらの気迫におされて、子どもは恐縮し二度としないものだつた。 今の先生たちは顔の美醜などを簡単に話題にし笑いの種にする。テレビのお笑いトーク番組そのままが教師の教室風景だったり雑談風景だつたりする。このような教師に扱われた生徒たちはやがて五十代に近づく頃、先生を訪ねて「あの頃は面白かつたですね、A子はブスと言われたらマジに気にしちゃって」などと笑い話をするのだろうか。そして先生も一緒に笑い合って旧交を温めるのだろうか。でもこんな見方もある。空気も読めない生真面目きまじめ人間について、 ある人が、「時代の波に乗り損なった生真面目行動派が連合赤軍でありオウムなのだ」と分析していたが、そうなのかも知れない。そうだとすると私の体験談も所詮は古き良き時代の話であって今は通用しないのだろうか。

   新しい対策を見て

 今次も (平成九年頃) 文部省筋の専門家会議や審議会などから新しい対策が打ち出されたが、実はそれらは私たちが現職の頃、何度か打ち出されたものと殆ど同じである。私などが二十年以上も前から努力したことや試行したことがたくさん盛られている。中でも、今「目玉施策」にされつつある教育相談の重視やカウンセリング体制の導入などは、私が実践試行に苦労したもののひとつである。今までと違うのは専門カウンセラーの導入である。どうして同じことが繰り返されるのかと言えば、そもそも、いじめ問題等の生徒指導対策は経済対策などと違って、人間そのものに対する対策だから、そう新しい対策を打ち出せるものではないということなのだ。マスコミは「目新しいものがない」とか「変わりばえしない」などと叩くが、それは間違いであって、同様のことしか打ち出せない程にそれは重要な対策なのだと捉えることが大事なのである。議会対策やマスコミ受けをねらって新対策を次々と出せば「朝令暮改ちょうれいぼかい」や「屋上屋を重ねる」ことになり、かえって混乱や無変化が続くことになる。要は徹底することであり、できないならなぜできないかを検討することが肝要なのである。 

  正しい子育てや教育とは

〇  実は、いじめを防ぐ育て方や教育というものが特別にあるわけではない。それは非行を防ぐ育て方や教育と結局は同じなのである。
〇  よちよち歩き始めた子が転ぶのはあたりまえだし、危ない道へ飛び出すのもあたりまえであって、その都度親は制止をしたり、教えたりして安全能力を養おうとする。
〇  いじめや非行は人生という道路の歩き方で、転んだり、迷ったりした状態と捉えることが大切なのだ。
〇  いじめや非行があったら、その時こそ、いい機会とばかりに、正しいあり方を教えることや導きにつとめることと思わなければならない。とんでもない子だと思いこんだりラベルを貼るのは間違いである。
〇  一度教えたら後は放任してもいいのではなく、転び方や迷い方が年齢相応であるかどうか見ながら、教え導く必要があるので、生涯学習なのである。    
〇  だから、いじめや非行は根絶よりも衰退すいたいの視点で当たることが実際的なのである。
〇  畑づくりに例えると、根絶してもやがて草は生えてくるので、その度に草取りをして畑の機能を維持するように、営々と努力を続けること、それが人間社会を維持するための親や教師に課せられた仕事なのである。

「来る秋の稲の実りは知らねども  きょうのつとめに田の草ぞとる」 古歌
   
 教師に降りかかる危険性

  清見・傾聴であたると、とんとんと旨くいくわけではない。ボルノーはそこのところを次の様に言っている。清見・傾聴を信頼と置き換えて読んでほしい。
  「信頼は、教育をなしとげるためになくてはならないものであっても、この信頼は自然法則のようには作用しない。信頼はすべて失望させられることもある。このときには教育者の意図は失敗して、世間の目からみれば、多くの場合、大切な予想に失敗した者として映る。けれどもそれは間違っている」。(「人間学的に見た教育学」玉川出版64p)
  「教育者はたえず繰り返し意識的に、この失望の危険に、そして世間から避難される危険に身をさらさねばならない。この要請は、教育者の職業のひどく難しいことを示している」。(「人間学的に見た教育学」玉川出版65p)
    このボルノーの指摘から約半世紀の今は、家庭や地域社会の教育力がいっそう低下している。子ども達は基本的な生活習慣や社会性や道徳的判断力が年齢相応に育てられないままに学校に送りこまれるので、学校や教師の困難さはいつそう増大している。いっぽう、いじめ事件の過激なマスコミ報道やコメントなどで、親や世間は学校や教師を裏見で見がちになっている。加えて、世の人々は公共への依存性と責任追及の風潮が加速しているので、学校はうかうかしていられない。ボルノーが指摘したように失敗者として非難されるどころか、裁判沙汰さえみられる有様となった。だから常に子どもの起こす(或いは抱える)問題を先取りする必要に迫られるので「とても清見・傾聴・信頼どころではない」のが今日の現場教師の心境であろう。
   日本弁護士会では、いじめられるのも人権問題だが、いじめる子の問題も人権問題であると見る。なぜなら、いじめる行為は正しく育てられていないことによるので、正しく育てられる権利が侵害されている結果だと言うのである。この見方は今日の混迷状況を解決する手がかりになるかもしれない。そしてこれから先、なおいっそう進行するであろう人権社会の中で教師の人権保護も期待できるかもしれない。

 いじめは第三次産業社会がもたらすもの
 
 いじめ問題は昭和六十年頃(80年代半ば)から顕著になってきたが、不登校問題もこの頃からである。少子化問題もこの頃から始まっている。一方、少年殺人などの凶悪事件は反比例して減少している。そして平成十七年(2005年)から発達障害がクローズアップされるようになった。少子化で子どもが大事にされ、学校教育や福祉制度も密になったのに、いじめ・不登校・発達障害が増え続けるのはなぜだろうか。その理由を児童精神科医・臨床心理学者・学習院大学教授の滝川一廣 (1947年生まれ)の説 (子どものための精神医学17年刊) を基に略述してみる。
 昭和二十五年(1950年)頃までは第一次産業社会 (農林水産業) で、人々は「ひと」よりも「自然」を見て暮らしていた。昭和三十五年(1960年)頃から第二次産業 (工業・製造業) と第三次産業 (商業・サービス業) が増え始め、第一次産業が衰退し始めた。第一次産業は「自然」が相手で「消費よりも生産」の志向性があり「勤勉性」が人の価値とされた。第二次産業は「もの」が相手で腕の良さがあれば偏屈な職人気質かたぎでも通る社会だった。そうした一次・二次の社会では発達障害は目立たず、いじめ自殺騒ぎも起きなかった。平成二十七年(2015年)になると国民の70%が第三次産業(商業・サービス業) の従事者となり第一次産業はわずか3.6%に減少した。すなわち日本社会は第三次産業社会となり、それは生産よりも消費に重きを置く社会となったのである。商業やサービス業は「ひと」を相手にする仕事なので、相手を見定め関係を結べる「関係力」とか「コミュニケーション能力」が価値となる。ひらたく言えば「常にひとを気にし気配りが出来るかどうか」である。子ども達はそうした社会の影響を受け、「仲間からどうしたら外れないか」、「友人関係をどうしたら気まずくなくこなせるか」、「ひとりぼっちにならないためにはどうしたらよいか」などが子ども達の中心課題となり、「チクった」の「チクられた」のといじめに走り、多数の平均的な子から外れる発達障害は目立つようになったのである。第一次・第二次時代にあった「子どもとは非常識なものだ」とか「とんでもないことをしでかすものだ」との「大らかな子ども観」は消えてしまい、「あってはならないこと」とされる社会となり、そのことが「いじめ発生の土壌」を生み、不登校を増やす結果となるなど、逆説的な結果をもたらしているのである。

お わ り に

 私は昭和三十九年(1964年) に宮城県白石市立福岡中学校で文部省・宮城県教育委員会指定の生徒指導研究に従事して以来今日まで53年の長きに渡り生徒指導の勉強を続けてきました。だから当然、いじめ問題にも取り組んできて、振り返れば、いじめ問題は昭和六十年代になってクローズアップされるようになったと思います。そして大事件が起きるたびに文科省や各自治体から対策やスローガンなどが打ち出されて、大河内君事件の頃などは「いじめ撲滅」と盛んに唱えられました。が、撲滅はされずに今日にいたっております。そのことは、それだけいじめ問題は簡単な問題ではなく、根の深い問題であるということであり、それは日本や欧米諸国など先進諸国が抱える問題でもあるようです。そうした社会の中で子どもの指導に携わるのですからいじめ問題は避けて通れないわけです。
 避けて通れない先生方のため、そして煩雑で多量の仕事に追われる先生方のために、「受験直前虎の巻」のような冊子をと思いながら、そうではない「いじめ問題思いつくまま」を入れてしまいました。それは、即効的な対処だけでは一時的、短期的な解決にとどまるので、どうしても長期的、持続的な視点に立った取り組みが必要なことも伝えたかったからです。また、社会の近代化が進むほど教師は糾弾されやすくなるものであることを、ドイツの哲学者ボルノーの言葉を引いて説明し、先生方を慰め、ねぎらいたかったからです。
 「社会が変わり、親が変わり、子どもが変わった」と書きましたが、何がどう変わったのかと言えば、第三次産業社会となり、対人能力が価値とされ、人間関係を気にする空気が蔓延し、平均から外れることを嫌う社会に変わったということであり、そうした社会の状況や心理が、「いじめ発生の土壌」であり、発達障害が目立つ社会になった、ということであるわけです。ですから、この社会構造が続く限りいじめ発生は続き、教師の努力にもかかわらずいじめ自殺が起きてしまう可能性があります。たとえばスマホを通してのいじめなど親も教師も把握するのは難しく、防ぎきれないことも起こるでしょう。ですから責任など追及された時にきちんと答えられるだけの取り組みをしておかなければなりませんし、「上司に報告がない」とか「それは体罰に当たる」などの「うっかり行為」で失職に追い込まれたりすることがないよう気をつける必要があります。また、子ども自殺のニュースがあった時は連鎖自殺 (模倣自殺) をする子がいますから気をつけなければなりません。
 本稿が少しでも先生方のお役にたって、未来がより明るくなりますよう願いながらワープロの打ち込みを終わることにします。    
2017年(平成29年) 7月7日 菊池嘉雄83歳


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