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ああ気象予報士 ~お天気お姉さんたちを見ながら思うこと~

きくよしエッセイ 平成十九年(07年)五月 菊池嘉雄73歳

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 私が中学生の頃、将来なりたいものに、科学者、気象台職員、放送局職員、学校教員の四つがあって、四番目の希望であつた教員になり定年まで勤めたのだが、退職した頃は大幅な自由時間を使って四つの資格をとろうと考えていた。その四つとは心理カウンセラー、家庭教育カウンセラー、気象予報士、音楽療法士の四つである。が、どれもとるのをやめた。その理由はそれぞれあるのだが、またその理由も話題としては面白いのだが、割愛して、今回は気象予報士についてくだを巻いてみることにした。題して「ああ気象予報士 ~お天気お姉さんたちを見ながら思うこと~」だが、書き急ぐ理由は、今、NHKのお天気キャスター半井小絵なからいさえ山本志織やまもとしおりがテレビに出ているうちにこれを書きたいと思ったからである。
 中学生の頃なぜ気象台職員を将来の職業にしたいと思うようになったかには当時の理科教員、菅原先生が関係がある。私ら数人が今で言えば理科クラブみたいなもので菅原先生の指導のもといろんな実験や観測などをしたがその中に気象観測があった。毎日、気温や気圧を測って記録する仕事というか活動というか、そういうものがあつて、私はまじめに測定と記録に励んだ。そうしているうち、先生は私たちを仙台の気象台に見学に連れて行ってくれた。雨量計などの測定器が並んだ広い庭や機器類が動いている屋内施設を見て興奮したが、圧巻は風船による高層気象測定の実際を見学した時だった。上空の気温、気圧、風速、風向を計るのに子供を持ち上げるほどの浮力のある風船に、ラジオゾンデという、無線で測定結果を気象台に通信できる機械をつけて飛ばすのを間近に見たのである。これが後でとても役に立った。教員になって福島の山の中の学校に勤務したての頃、村人が心配そうな顔をして学校に来て言った。「こんなもの見つけたのだけどもこれなんだっぺ。怪しいものだべか」。見ればそれはラジオゾンデなので私が説明してあげた。「それはラジオゾンデといって上空の気温を測ったりするもので、気象台が飛ばしたものです。風船は上空に行くと空気が薄くなるので破裂して落ちて来たのです」。「ああそう。戦争中、風船爆弾というものがあったので、そういうものかと思ったが、それじゃ心配いらねんだっぺ」。村人は安心して帰っていった。このお陰で「こんど来た若い先生は大学出の優秀な先生だとや」と村中の評判になってしまった。余談になるが、このように当時(昭和三十二年頃)の学校は新しい知識や情報そして器機を持っている文化センター的な存在として地域住民から信頼と尊敬を受けていたのであるが、今は住民のほうが知識や情報を多く持ち、家庭のほうが先進的な器機を持つようになり、相対的に学校は全てが古くさい存在のような感じになってしまった。
 中学生の頃に話しを戻して、ある夏休みでのことだった。私は毎日学校に測定に行っていたが気圧を計るのが特に好きだった。身長程もある長い水銀気圧計は新品なのかピカピカ光っていて、学校の自慢の品だと勝手に合点していた。台風が来た。強風が吹いて木々が大きく揺れ、雨が横なぐりに降る中を測定をするために学校に行ってきた。危険などとは考えなかった。なぜ台風の吹き荒れる中を測定にいったのか?。子供だったので単純な義務感だったのかもしれないが、なにやら悲壮感のような気分で嵐の中を歩いた記憶がうっすらとある。このようなことをしているうちに気象台職員を希望するようになったように思う。
 大学は科学者への夢から冷めて、経済事情と学力事情から、なれる可能性のある教員になろうと、福島大学の学芸学部に入り理科コースを選んだ。大学の講座の中に気象学があり福島気象台の職員が先生をしているので受講した。別に気象台職員になることを望んだわけではなく、いちどきちんと学んでみたかったからである。ところが内容がすこぶる難しい。気象学とは空気の状態を解明する学問であり、空気は水などと同じ流体のひとつなので、流体力学や熱力学が使われるのだが、これが非常に高度な方程式で説明されるのである。小学校は戦時中でろくに勉強はしてないし、中学校は戦後なので学校体制が整っていなかったし、高校ではたいした勉強をしなかったので、方程式を操る講義にはほんとに参った。単位はなんとか貰えたのだが先生が気の毒がってまけてくれたのかも知れない。単位をとっていなかった夢をいまだに見る。
 天気予報をするには天気図というものを使う。これが書けなければ、または読めなければ予報はできない。全国にある気象観測所と洋上観測船で百以上の地点から気温、気圧、風向、風力、雲量、降水量などの気象データが気象庁に数時間おきに送られてくる。気象庁はそれをもとに天気図を描いて予報を出す。当時はこの天気図が出回るのは翌日の新聞だけである。それでNHKラジオの第二放送や短波放送で、この気象データを放送する。船舶や航空管理事務所、農業指導所や山岳事業所など天気に密接に関係するところにはこの放送をもとに天気図を描く専門家がいた。戦争中は気象データは重要な軍事情報だったので国が管理していた。私も天気図を描けるようになりたくて、大学の先生は気象台の職員であるところから、白紙の天気図用紙を沢山もらって、ラジオからデータを聞き取って描こうとした。これがまた大変に困難なことであった。非常に速いスピードでデータが読み上げられる。それを天気図に書き取るのには、例えば新聞記者の速記技術みたいな専門性を要するのであった。当時は録音機などないから全身耳にして聞き取って天気図を描いてみたことがある。うまく描けなかった。
 こんなわけだから理科教員になって気象のところを教えるのは楽だったし熱が入っていたと思う。天気図を描く授業もあるのだが二時間くらいしかかけられない。描けるようになるまでやったら他のことができなくなつてしまうので、「こうやって描くんだよ」で終わるしかなかった。
 平成七年の春、定年退職して毎日が日曜日のようになつた私の目に飛び込んできた情報に気象予報士門戸開放のニュースがあった。気象予報士資格認定の国家試験に合格すれば誰でも気象予報士になれるというのである。「よし受けよう!」と気が高ぶった。気象予報士通信講座の案内書を取り寄せてみたら、なんと高額がとられるではないか。それでひるんだ。高ぶった気持ちが冷やされ、よく考えてみたら、資格をとっても実際にどう使えるのか先は何も見えていないことに気がついた。白石に住んで気象予報士の資格を活かせる立場や事業は何もない。「高額を払ってまでとることもなかろう」と諦めることにした。通信教育講座から一年間くらい勧誘の文書をよこされ、ちょっとぐらついたときもあったがついに受講しないでしまった。
 平成十六年春、NHKテレビを見ていてショックを受けた。なんと気象予報士に花も恥じらうような、うら若い乙女が出てきたではないか。半井小絵なからえさえという一九七二年生まれのお嬢様が天気図を指さしながらよどみなく解説し予報をする。「えー!、なんで?」と私。それまで気象予報の仕事は男の仕事で堅い仕事だと思っていた。もとは予報官と言って官であったと思うし、民放が出てからは気象予報士はお天気キャスターなどと呼ばれるようになり、福井敏雄ふくいとしお倉島厚くらしまあつしなど年配の男たちがやっていた。長年、気象に取り組んできた熟年の男たちの気象解説には信頼が寄せられていたようだったが、そこへ二十代か三十そこそこのお嬢さん予報士が突然出てきたのにはすっかり驚かされた。
 「俺が大学の時、あんなに苦労した気象学の方程式など、このお姉さんは分かっているのだろうか?」。銀行職員から気象予報士に転職するべく専門学校で学んで合格した半井はインタービューでこう話している。「難しい数式を使う風速計算なども苦になりませんでしたね」、だって!。「やっぱり分かっているんだ」。でも資格試験に三回落ち四回目に合格したという。「だろう!難しいんだってば!」。「でもこんなお嬢様がどうして?」と思う。今までは理数系でお嬢様を見かけなかったので不釣り合いに感じてしまうし、乙女が学術優秀だと天女のように見えて憧れを抱いてしまうのだ。NHKの午後七時二十八分に半井が画面に出るのだが、朝日新聞は「七時二十八分の恋人」などと書き立てた。ある雑誌を読んでいたら「さえたんファン」のことが書いてあった。さえたんとは半井小絵のこと。「どうやら、さえたんファンは、オヤジたちであるらしい。番組でさえたんがお辞儀をすると、テレビを見ているオヤジは一緒に頭を下げるという。雨に気をつけて下さいといえば、ちゃんとテレビの前で返事をするという」と書いてある。「これって俺だ!」と思わず叫んでしまった。私の場合は今は山本志織やまもとしおり (78年生まれ)だ。山本が出てきたときはリカちゃん人形を摸した気象予報ロボットを使ったのではないかと思ったくらい可愛い女の子である。これが半井と同様天気図を指さしながらよどみなく解説をし予報をする。それに私は「ハイ分かりました」などと返事をしている。男の仕事だと思っていた私には信じられないような時代の進展である。「天気図へ容姿も競う視聴率」(仙台青葉・佐藤恵子。平成七年三月十四日河北川柳欄)。この川柳の作者も私と同じことを感じているのだろう。
 半井・山本以外にも沢山のお天気お姉さんたちがおり石原良純いしはらよしずみ(石原慎太郎の息子で俳優と兼業)のようなお兄さんたちもいる。この人たちの多くは転職して気象会社に入り気象会社から放送局に入り込んでいる。気象会社は平成五年の気象業務法改正によって生まれた民間会社である。気象情報は人工衛星で世界の気象が把握できるようになり国家統制の必要もなくなる一方で今度は非常に儲かる打ち出の小槌となってきた。たとえばNTTの天気予報電話177番による収益は八年前で年間百億円だそうだから携帯電話時代のこれからは更に莫大な収益が見込まれる。現代社会は基幹産業や娯楽産業、市民活動や個人生活に至るまで広範囲に気象情報を欲しがるので、気象情報サービスはビックビジネスとして展望されるようになった。そのために国の規制が緩和され自由化されたのが平成五年の法律改正だった。それで続々と民間の気象会社が誕生し気象市場作りとしてお天気お姉さんたちが登場する舞台が作られたのだと私は見る。
 テレビのお天気お姉さんを見ながら娘たちに気象予報士資格をとろうとしてやめたことを話したら「よかったね、お父さん、とらなくて」と笑われた。半井や山本ら若いきれいどころの仕事なのだから、定年過ぎのオヤジが出る幕ではないという笑いなのであろう。でも、家族の中で私の天気予報は信頼されている。「天気どうなるの?」と家族は私にきく。大抵当たる。特に台風が来たときなど予報は大荒れと報じても「この辺は大丈夫だよ」と私が言うとだいたいその通りになるので「すごいね、お父さん」と信頼される。私はテレビの予報の言葉はあまり聞かないで、天気図を見て白石地方の天気の変化を考えるから当たるのである。例えば台風が日本海側を通るときは西日本や青森北海道方面は荒れるが仙南地方は静かなことが多いし、白石の鉢森山に雲がかかれば必ず雨になるなどを経験的に知っているから、テレビの予報とずれたことを言っても私のほうが当たるわけである。局地的な予報は若い人より長い経験者のほうが当たるのは昔も今も変わりはないのである。若いお姉さんや若いイケメンの男ばかりが気象予報専門家のような今の使い方はテレビ時代の悪弊じゃないの…とぼやいて、くだを巻くのを終わることにしよう。
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