昔、素朴なことで、世は不公平だなと気づいたこと
私が中学生だった頃。
あるクラスメイトに喧嘩を売られた。
「お前、頭がいいからって見下してるだろ!」
このシーンをよく覚えている。
そんなつもりは全く無く、見当外れの罵倒だったから。
中学生だった私はテニス部、彼(A君)は野球部だった。
正直、クラスメイトである以外絡みはなく、性格も合わないから群れも違った(グループって言えばいいか)。
まあ、Aくんのことはよく知らない。体型や顔が丸っこく、刈り上げた髪型をしている、野球部に居がちな容姿だと思う。
喧嘩を売られるにしても、まず対面することすら珍しい。関わってないんだもの。
それなのに突然、放課後の何の拍子かガンつけられた。
ほんと何がきっかけか憶えていない。
で。
頭がいいからって見下してるだろも何も、中学のことの私はアイデンティティやらなにやらで自分のことで手一杯で、親しい人以外にはてんで興味はなかった。
もし彼になにか不快を与えていたなら、そのガタイがいわゆる「いじめっ子」によくある体型なので、関わりを避けていた節はある。
幅と体積が大きいやつ。ちびで痩せっぱちな私は腕力では勝てないので関わらないのが一番なのだ。
喧嘩を売られた場面に戻ると。取っ組み合いや殴り合いになる雰囲気ではなかったので適当にあしらった……と思う。特に覚えてない。
いや知らんが、でさっさと部活に行ったのかもしれない。
その出来事で感じたことは、やっぱり世界は不公平だな、ということ。
私はそれなりにテストの点は良かった。とは言っても中学で1学年40人しかいない田舎だから、都会に行けば中の上とかそのへんだと思う。
彼が如何ほどか知らないけれど、何かしらで私の点を耳にして、劣等感が刺激されたのだと思う。
件の現場で思ったのは、「じゃあ勉強すればいじゃないか」、そして「お前はスポーツが出来るのに、何?」ということ。
勉強すればいいじゃんは、もうそのままで、出来ないとこを勉強すればいいじゃん、と。
でも、きっと勉強しても出来ないから、コンプレックスになってるんだろうな、とも思った。
そして、スポーツについても相まって、不公平だなと同情してしまった。
「暴力はいけません」と授業で言われる。先生が言う。
どうして?腕っぷしが強いやつが、理屈を超えて、言うことを聞かせられるから。戦争と同じ。強いやつが正しい、という世界。
だけど、この件は、「『暴力はいけません』と賢しらぶった奴らが、肉体的には優れているけど考えるのは苦手という人を、一方的に押し込めている状況」だと感じた。
法律と同じなんじゃないか。偉い人がルールを作って、最も適応できたものが好き勝手やれる。そこに適正が無いと、どんなに不利益をつかまされても、ルールだから反抗は許されない。
長所である体型の良さは認められない。暴力はダメで、頭がいいやつが正義だ。それが学校だ。それがルールだ。
頭がいいやつ、口が達者なやつは、それで人を傷つけられる。
傷つけても咎められない。暴力ではないから。心の傷は視えないから、「ルールを司っている人間」が判断できず、許される。
お互い悪いところがあったのね、仲直りして終わり!
見つからないようにいじめるのが、最も正しくなる。
見つからなければルール違反でなく、言うことを聞かせられる。
いじってるだけだから、ノリが悪いなぁ、お前チクったら殺すから。
正しい!
ということがあって、私は平等も公平も正しさも何もわからなくなりましたとさ。
善く生きるってなんだろうね。
自殺を企てる友人の隣で、そう虚しく思っていたのでした。
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