62.本質に戻るということ
私は、この3ヶ月の間で大きく変化したことがある。今日は、それについて話したいと思う。
これは、不思議なことに、変化したようで変化していないような、でも確実に変化した話。(内側で起きていることだから表面的にはわかりにくい)
私は、3ヶ月前、一気に数人とご縁が途切れてしまうようなことがあった。
しかも、なんとなく途切れるとかではなく、なかなかのいざこざがあって、私にとってはどうしても受け入れがたい結果となって離れることとなった。もちろん、このようなことは今まで生きてきて、初めての経験だ。
もちろん全て大切な人間関係だったから、その当時なりに一生懸命対話したり、なんとか修復できないかとできる限りのことはした。
けれども残念なことに、頑張れば頑張るほど、どうにもこうにもいかなくなって、悲しいほどあっさりと私の世界からいなくなってしまった。
当時は、何が起きたのかわからず理解に苦しんだし、しばらくは受け入れることができずにもがき苦しんだし、それなりに?不眠になったり、鬱状態になったり、食欲がなくなったり、自律神経失調になったりと、自分でもこれはやばいな、と思うような状況にもなった。
色々なところに頼って、周りとの関係どうこうよりも、まずは自分を立て直さないと、というような状況で、自分を立たせる作業と同時に本質に戻る作業もする流れになった。
その流れに従ったおかげか、今となっては、当時どういうことが起きていたのかわかったし、それを深く掘り下げていくと、実は全く問題なんてなくて、最善だったのだなあ、来るべくして来た別れだったのだな、とわかる。
起こった現象なんて直接的には何の関係もなかった。
結局は自分との信頼を取り戻し、本質に戻る、ということが必要なだけだった。
その別れは、私がそのプロセスを踏むために起きた出来事で、離れていった人たちは、そのためのきっかけを作ってくれた、私をここまで連れてきてくれた人たちだったわけで、スピリチュアルな視点で言えば私はとても愛されていたし、応援されていたのだなあ、有難いなあ、と感謝の気持ちでいっぱい。
(もちろん、現実的な問題は別としてあるから、全てがそれで解決するわけではないのだけれど。そういう意味で全て愛で片付けて、自分の感覚を切り離してしまわなくなったことも進化の一つ。)
何が大きく変わったかというと、自分を信頼しているかしていないか、ということ。当時の私は、信頼どころか裏切りまくっていた。
少し語弊があるから詳細を書くと、自分のことは根本的には信頼しているのだけど、外側の出来事に囚われてしまって、自分の感覚を信頼できていなかった、ということなのかもしれない。
結局は「自分の選択」がその出来事を起こしているわけで、その選択を完全に他者に委ねていて、自分自身としっかり繋がって本質からの声に従って選択していなかったし、表現していなかった。
自分の感覚はちゃんとつかめているのに、外側の現象をよくしたいばかりに、自分の感覚を無視した行動を取っていたし、自分で自分を裁いて正しくあろうとし、自分が感じたものに従った行動をとると、周りと不調和を起こす、という思い込みが自分を支配していた。
それがこの3ヶ月の間、ひたすら自分と繋がって、自分の感じたことをしっかりキャッチした上で、認めて許してあげる。という作業をし続けてきたおかげで、大きく変化した。
これにはプロセスがあることもわかった。
表層の部分の感じたことは、ただの反応だということ。
その反応をそのまま表現したり、反応に従った選択をする上に、反応する自分の感情を理解してあげていなかった。そのネガティブな、受け入れたくない自分から逃げることは、結果的に外側のせいにする、ということでもあって、当然その意識が反映されて周りと不調和を起すことになる。
しかも、
「わかってもらえない。理解してもらえない。」
という苦しみを伴って。
こうやって客観的に文字にしてみたらものすごくわかりやすいのだが、単純に自分が自分でそうしているだけだった。
本当は、シンプルに
「本質からの声」
を聴いてあげ、それに従った行動をとればよかっただけなのだ。
その、本質からの声をダイレクトにキャッチできれば一番いいのだけど、人間だもの、そこはなかなか複雑な構造になっていて、とあるプロセスを踏まなければ、そこまで到達できない部分がある。
反応で対話するのではなくて、本質のハートの部分でコミュニケーションを取るためには、まずは反応の部分を自分の価値と同化しないこと。反応を悪者扱いしたり、ジャッジして裁くことは、理解されない、わかってもらえないという結果を招くから、その習慣はやめて、以下のように取り扱うといいと思う。
遠い昔の傷や、持ってしまった思い込みなどから自分を守るために起こった反応は、あくまで反応であると知り、ただそう反応してしまった自分自身を認め、許し、愛してあげること。わざわざ愛そうとするというより、その反応は愛しているからこそ起こしたんだな、愛しいな、と思い出すという感覚に似ているのかもしれない。
反応の先には、本当に望んでいることがある。だから、その反応に感謝して、本質の望みに気付くためのナビとして使わせてもらう。
ネガティブな感情として反応が出た場合、例えば腹が立つ、という感覚を使って、腹が立ったのは何故なのか、本当はどうしたかったのか、を聴いてあげる。
それを掘り下げていくことで、やっと本質にたどり着く。そうすると反応は昇華する。
そのプロセスを繰り返していくと、ほとんどが「愛」に集約されてしまう、ということに気付くのだが、そこに到達する前に、人間ドラマを繰り広げてしまっているだけなんだな、と思うと、それすらも愛おしくなってしまったりして、結局どんなプロセスを踏んだとしても、最終的にはそこにたどり着くのであろうな、と思う。
だから、結局は好みの問題もあるのだろうけど(笑)
人間の命には限りがあるから、先祖代々引き継がれた、大切な自分の命を使うなら、すり減らすよりも、そのエネルギーを創造的なことに使って、調和と豊かさの循環の世界で生きたい、と思う。
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