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ナンパ師と仏教 六道について

私は数年間ナンパに、のべ100万ほどかけて挑戦し、そして結局一度も即や準即(*1)を経験しないまま、マッチングアプリで知り合った女性と結婚した。そういう自分を恥じた時期もあったが、後から考えれば、私のようなナンパ師崩れはもちろん、凄腕と呼ばれる人たちも、心に大きな闇を抱えていると私は考えている。今日はその心の問題を仏教という補助線を引いて書いてみたい。

口説く力や自身の魅力を高めれば、美人といい思いができる、というのがナンパのメリットだとされる。美人といっても様々で、ナンパ師の実力?が高ければ、モデル、アイドル、女優などなど、男が一度は妄想するような女性と関係を持てるというわけだ。しかし実際、例えばモデルである女性は、モデルである前一人の人間であるのだが、ナンパ師はそんなことは気にしない。とにかく顔がいいとか、ステータスが高いとか、そういう「属性」が彼らにとって大事なのだ。

「その人」という存在には変わりはいない。しかし「属性」には上位互換が必ずついて回る。ナンパ師はどれだけ顔のいい女性、スタイルのいい女性、性格のいい女性、ステータスのいい女性と関係を持っても、「属性」を基準にその人を見るため、いつまでたっても満足できない。私はこの「もっと」を求め続けてしまうところに深い闇があると思っている。

仏教に六道という考え方がある。NARUTOにペイン六道というキャラクターが登場するが、そのモチーフになっている仏教の概念だ。私はそれを魂のステージ、階層だと理解しているが、六道には6つのステージがある。天道、人間道、畜生道、修羅道、餓鬼道、地獄道。ナンパ師がいるところは修羅道や餓鬼道に相当すると考えている。特に、餓鬼道だろうか。餓鬼道は飢えと渇きに苦しむ世界。どれほどの美人を抱いても、決して満たされることのない彼らにぴったりだと思う。
餓鬼とはつまり鬼のことだが、彼等にも種類がいる。無威餓鬼と有威餓鬼だ。有威餓鬼の方は天道(六道のトップステージ)と同じ享楽にあずかることもあるが、決して満たされることがないそうだ。天道の享楽、つまり絶世の美女との逢瀬。しかし餓鬼道においては、飲食物さえ、手にした瞬間から火に変わってしまうらしい。私はというと、間違いなく「無威餓鬼」だろう。とにかく美人と関係を持つことを妄想し、なんの成果もなく惨めな思いで帰宅していたからだ。

そんな私には、かつて師と仰いだ凄腕ナンパ師がいる。数多の美女と関係を持ち、週刊誌などにもナンパのコラムを寄稿するような人だ。彼はずっと燃えさかる恋をしたいといっていた。つまり渇きの炎を自ら望んでいるのだ。しかし私は彼が餓鬼道にいる餓鬼であることを知っている。彼は美女との関係をブログにアップロードしているが、とある美女との交際の中で、その人が浮気をしていたのをみてしまったのだ。彼は激しい嫉妬心を覚え、数年交際していたその人の全てをシャットアウトする。そんなエピソードだけではない。電車で見かけた美女を口説き落としたが3ヶ月で飽きてしまった、また別の付き合っている彼女が他のナンパ師の即報(*2)に映っていたかもという猜疑心に駆られ、これまた突然全てをシャットアウトする、などなど。私は彼を尊敬しているが、同時に恐ろしさや哀しさを覚える。大都会に潜む強大な怪物のように感じることがある。どんな凄腕ででも、仏教的に見れば飢えと渇きに苦しみ悶える鬼のような存在なのかもしれない。

別に餓鬼や修羅で何が悪い、というのはごもっともだ。欲望のままに一喜一憂することが人生の本懐だ、と私の父は言った。しかし、私は「渇きの炎」はもうこりごりだ。それを人生の本懐と言えるほど私は強くなかった。そしてそれでもいいと思えるようになった。


(*1)即や準即…ナンパにおいて、その日中に関係を持つことを「即」という。また、声をかけたその日は連絡先の交換、あるいはアポイント(呑み)だけにとどめ、後日もう一度呑みなおして関係を持つことを「準即」という。

(*2)即報…即の報告のこと。主にXやブログ等で成果報告としてアップされる。

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