熱力学的なエントロピーの定義

熱力学の教科書を書いています。ほんとは統計力学の講義ノートをもとに統計力学の教科書を書くつもりだったのですが、僕の統計力学はかなり熱力学依存度が高い上に初等的すぎる熱力学の教科書には書いてないマシュー関数なども使うので、それを念頭に置いた熱力学の教科書を先に書くことにしました。

熱力学の教科書はそれこそ掃いて捨てるほど出版されていますが、90年代末に大変革があって、いくつかのモダンなスタイルの教科書が出版されました。その嚆矢は田崎晴明さんの本で、これは今や最も読まれている熱力学の教科書ではないでしょうか。それに続くモダンな教科書には佐々真一、清水明、高橋和孝、岸根順一郎、前野昌弘各氏のものがあり、それぞれに特色があります。正直に言って、それ以外の古いスタイルの教科書は捨てていいのじゃないでしょうか。

ちなみに、伝統的なスタイルのものをひとつ選ぶならフェルミで、僕は好きだし名著ではあるものの、ほんとに古いので今の初学者にはお勧めしません。あとは全然違うスタイルのものでキャレンはよいと思います。僕が影響を受けたのはフェルミとキャレンです。

ただ、上に挙げたモダンな教科書はどれもそこそこ難しく、初学者が独習できるかは疑問です。初学者用の顔をしている佐々や岸根も難解だと思います。田崎を読んで理解できる人はもうそれで十分で、もう一冊読むなら清水ですが、僕はどちらもかなり難しいと思っています。

だから、モダンな教科書を読む前に読む初学者向けの本で、かつきちんと書かれているものが必要だと思いました。そういうのを目指して書いています。もともとはフェルミをアップデートしたような本にするつもりだってのですが、先日エントロピーの定義を大きく変更して、フェルミっぽくなくなりました。でも、全体の感じはモダンよりは伝統的なスタイルのような気がします。折衷かもしれません。

さて、そこでものすごく考えたのは、エントロピーをどう定義するかです。エントロピーは熱力学でいちばん重要な状態量です。過去に書かれたほとんど全ての(捨ててもいい)教科書ではクラウジウスの不等式を導出してから、その等式部分に基づいて

$$
S=\sum \frac{Q_i}{T_i}
$$

をエントロピーの定義としていると思います。これは基準状態から目的の状態までを準静的等温過程と準静的断熱過程で結び、経路に含まれる準静的等温過程について$${\frac{Q}{T}}$$を足したもので、$${T_i}$$は$${i}$$番目の熱浴の温度です。これを積分で表して

$$
S=\int \frac{d'Q}{T}
$$

とも書き、これがクラウジウスによるエントロピーの定義ですが、導出を見直すとこれは形式的な表記と理解するべきでしょう。断熱過程については積分の寄与を0と定義します(あらわにそうは言われませんが、実質的にそうしています)。

クラウジウスの等式は任意の準静的過程に含まれる等温過程部分に対してカルノーの定理を片端から適用して得られるので、カルノーの定理からの帰結です。この導出はちょっと複雑で、エントロピーをわかりづらくしている一因に思えます。なお、熱力学の教科書なのにボルツマンのエントロピーを使うものも少なからずありますが、それは熱力学を閉じた体系として記述していないからだめじゃないでしょうか。

ここでは別の導出を考えます。任意の準静的過程ではなく、ふたつの断熱線IとIIとそれをつなぐふたつの等温線$${T_1}$$と$${T_2}$$を考えるとカルノーサイクルが作れます。サイクルは等温線$${T_1}$$上でIからIIに向かうとします。それに対してはカルノーの定理から

$$
\frac{Q_1}{T_1}+\frac{Q_2}{T_2}=0
$$

です。これはカルノーの定理そのものですが、クラウジウスの等式の最も簡単な場合です。これには等温線の情報しか含まれないので、等温線$${T_2}$$を逆に向けて、どちらも断熱線IからIIに向かうことにします。すると

$$
\frac{Q_1}{T_1}=\frac{Q_2}{T_2}
$$

です。ふたつの等温線の温度をどう選んでもこれが成り立つので、ふたつの断熱線を結ぶ準静的等温過程では$${\frac{Q}{T}}$$が一定値になることがわかります。そこでエントロピー差を$${\Delta S=\frac{Q}{T}}$$と定義すれば、$${\Delta S}$$はふたつの断熱線だけで決まる量です。

断熱線上でもエントロピー差を決めたいのですが、断熱線上で$${\Delta S=0}$$と定義してもカルノーの定理と矛盾しないので、エントロピーそのものが断熱線上で一定値を取ると決めてしまいます。すると、任意に選んだ基準の断熱線でのエントロピーを$${S_0}$$として、エントロピーを

$$
S=S_0+\frac{Q}{T}
$$

と定義できます。$${\frac{Q}{T}}$$は基準の断熱線から目的の状態が乗っている断熱線まで結ぶ任意の準静的等温過程で測った量です。これはカルノーサイクルをひとつしか使っていないので、カルノーの定理から導かれるエントロピーの定義としては最も簡潔で簡単だと思います。このまま計算するには断熱線を知る必要がありますが、できなくはありません。

これが従来のエントロピーと同じものであることは断熱線ではなく状態に着目するとわかります。状態図上で断熱線と等温線は網目のように並んでいるので、任意の二状態を断熱線と等温線を組み合わせた経路で結べます。そこで。基準状態から目的の状態まで断熱線と等温線を組み合わせた任意の経路で結んで、経路上のすべての等温線について$${\frac{Q}{T}}$$を足すと、上のエントロピーと同じ値になることはすぐにわかります。一本の等温線をいくつもの断熱線で分割したわけです。

こうして得られるのはクラウジウスの定義によるエントロピーそのものです。逆も導出できるので、このふたつの定義は等価です。導出の違いは、はじめからたくさんの等温過程を考えるかひとつの等温過程で定義してそれを分割していくかの違いですが、熱を使うという意味では同じで、ひとつのカルノーサイクルのほうが圧倒的に簡単です。

ここまで考えて、この定義を使う本はすでにあるだろうと思ったので、最近の教科書でエントロピーの定義を確認しました。佐々と高橋は本質的に僕と同じくカルノーサイクルひとつで定義しているようです。ただし佐々は一般性を重視して公理を少し含む難解なことをやっています。高橋は僕とほぼ同じですが断熱線上でエントロピーが一定なのは定義だという点を強調していないように思います(よく読むとそうなっています)。清水と岸根はエントロピーにいろいろ要請を置いて公理論的に決めています。田崎は独自性が強く、内部エネルギーと自由エネルギーの差で定義しています。前野は田崎流を踏襲しています。

モダンな本のどれも一般的な(複雑な)クラウジウスの不等式に基づく伝統的な定義を使っていないのは面白いところです。そもそも一般的なクラウジウスの不等式そのものが載っていません。もちろんおおもとをたどれば本質は同じですが(田崎さんは本質的に違うと考えている節がありますが)、エントロピーを定義したいだけならカルノーの定理を一回使うだけで十分で、一般的な過程に対するクラウジウスの不等式の導出から始めるのは道具立てが大きすぎます。過去に書かれた膨大な数の教科書の多くがこの難解な方法にこだわっていたのは不思議です。何も考えずに古い教科書を引き写していたと言われても仕方ないのではないでしょうか。

なお、クラウジウスの不等式に基づく方法として、任意の循環過程を無数のカルノーサイクルに分割する方法も広く使われ、確かに間違いではないのですが、フェルミの教科書に書かれている方法のほうがスマートだと思います。複雑なので説明はしません。

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