COVID-19によって生き方が変えられることを受け入れて良いのだろうか?
すでに39歳である。
ある意味人生も半ばに差し掛かろうというこの時期にCOVID-19 というものが発生し、そのおかげで僕も周囲も社会も大きく変わっている、と言われているし、僕も仕事や生活における価値観や価値、意味自体が大きく変わっていると感じる。
COVID-19 の影響で移動・行動の自粛つまり移動・行動の自由が奪われている。その行動自粛という科学的な手法に対する是非について議論するつもりは無い。それは専門家の領分で、僕になにかわかるわけではないから。同じようなことでマスクするしないなども同じなのでここでは議題とはしない。
疑問に思うのはそのネガティブな=自身の生き方を暴力的なまでの変化を強制・矯正させようとする意見を、無批判に受け入れようとするその精神性である。
はたしてこのまま「僕たち家族の生活は、COVID-19に変えられた」と、10年後に子供に伝えることは、良いことなんだろうか?
と、最近良く考えるようになった。昔良くテレビのニュースで観ていたようなオイルショックやオウム事件(この事件はリアルタイムだったが小学生か中学生くらいだったので自身に取って直接的な判断を迫るものではなかった)のようなネガティブなものが人の在り方や考え方、もしくは創造的活動や精神に影響を与えるようなネイチャーとの関係性は不愉快である。
個人的に、そんなネガティブな関係性において塗り替えられたようなディストピアな世界である、と子供に伝えることはごめんだ。
ならば僕はどういう風にしてこの状況に対処するべきなんだろうか?子供が「この世界は楽しさに満ちている」と感じ自分もその楽しさを作っている一員であり時間の流れの先にもそれがあることを考えることができるようになるにはどのようにすればいいんだろうか?
現時点ではパラダイム・シフトの最中である、という認識は間違いないだろうから、このネガティブなものをポジティブな変化と捉え直して行動をする必要があるのではと思う。
その意味では、この社会の根本的な構造的欠陥としても考え得る、もしくは考える必要があることであり、技術が発展するにつれ、例えば近年では監視社会と言われるようなことが、多分、多く起こっているのであり、その上でポジティブな発展の兆しははたしてポジティブであるかどうか?を見極める必要がある。例えば自動車の発明・系譜上の発展はポジティブであるのだろうかということを考えると、それは否であると教える。人を含むネイチャー(自然・環境)に与える壊滅的な打撃や、人そのものが抱える精神的な束縛を包括して考えると、自動車はただ行動範囲を広げ、早く目的地に行くことができるだけのものであり、それ以上ではない。逆に自動車があることで人やネイチャーの自由や自治に制限をかけており、それは個人的な考えもしくは倫理観に照らし合わせると悪である。
インターネットは世界に広がり、人々を近づけ、(インターネットがある)社会をネットが使える使えないに関わらずフラットにした。その功は大きなものであるが、経済的・情報的な格差をより広げ、ネガティブな意味での一極集中化をもたらした。またデジタルに関連する(Webというだけではなく)人の動きに監視という仕組みを取り入れることで人の精神性を犠牲にして身動きを取れなくしようとしている。
便利なもの、それ自体を否定するわけではなく、視点を変えるとこのような形で簡単に非難することができることを自覚するべきである。視点は一つではなく単焦点では在るかもしれないが複数点である。
ネガティブな状況は避けられないしそれ自体が今回のCOVID-19のような形で暴力的かつ終わり無い再発性を見せることもあるだろうと思う。だからこそこの状況に対して傍観者または流浪者であってはならず、選択肢における自身の決定により運命を決めていくべきで、対処法ではないがそれこそが子供に伝えるべきことでは無いだろうか。