自宅ワークは兎にも角にも予定されすぎる

自宅ワークは兎にも角にも予定されすぎる。偶発性は重要だ。

いや良いんですけどね。ただ予定されすぎた結果として外部刺激の入り方が全然違ってくるんじゃないかっていう話で。前にも書いたとおり外部刺激を与えるために、今まで以上に情報摂取はしているんだけど外部刺激という意味ではなにか物足りないなと感じていたところ。単純にオフィスから家までの道のりを移動するだけでも外をボーッと眺めていたり吊り広告見たり、本屋さんに行ったりコンビニに毎日行ってたりっていうのは世の中の変化をこの目で見て感じ取ることができるわけで、つまり外部刺激になるってことだったんだなあと実感している。

つまりそれは偶発的な外部刺激ってことだと思うんだけど、そもそものところでじゃあそれがなんの役に立つのか?直接的または即時的に何かに役立つのか?っていうのはこういうフィジカルな行動を抑制された世の中は始めてであるからまだわからないんだけど、これが続くことによってどうなるのかは誰にもわからないんじゃないかとも思う。今日どこかでもお話したんだけど、行ったことも無いような場所だったり新しいアイテムだったりデバイスだったりツールだったり、もっと身近な(身近だった)ところでいうと、オフィスから自宅に帰っていた時間が30分ずれるだけでもフィジカルや精神面で受ける刺激っていうのは全然違っていたんじゃないかと。そのあたりでスケートしてるニーサン・ネーサンたちや疲れてるおっちゃん、海外から来てるらしい家族連れの旅行者やその人達の服装やキャリーケースに貼られている見たこともないステッカーやを見てるだけで刺激受けるんだけど今はそれがほとんど(全てとは言わない)なくなっている状態なので、外部刺激の量は圧倒的に少なくなっていると感じてる。

今この時を考えると基本的に偶発的な、思いも寄らないことは殆どないわけで、全てが予定として組み込まれつつある状況でもある。もちろん仕事の発生や内容はさておきだけど。この状態を見て思ったのがタイトルにも書いた「自宅ワークは兎にも角にも予定されすぎる」ということであり、積極的な情報収集だけではなく、偶発的な外部刺激を自分にどれだけ与えることができるか?っていうのが暫くは注意して自分の中で起こしてみることかなと思った。僕はそんなに都会に済んでるわけではないから流石に毎日の散歩だけで得られる外部刺激は限られているから。

無駄話の重要性や、多様性、フィジカルに受ける刺激の価値っていうのはもう少し考えてみたいところなので、別で書く。

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