「俺に勝てるのは明日の俺だけだ」 勝ち負けが決する場所は、思ったよりずっと遠いところにある。
ご存知の通りnoteでは年末が近づくと「今年のnoteまとめ」というものが利用者ごとに届きます。
内容は、自分の投稿の中で「よく読まれた記事」トップ3のほか、各種アクセス集計など。
僕の場合のトップ記事は漫画「男塾」の有名シーン「男なら死ねい」について書いた短い考察。
昨年から依然としてgoogle検索1位を続けていて、スキ❤️数に比べてnote外からのPV数が圧倒的に多いという変な事態に。
純文学の考察より、やはり漫画についての記事はアクセス数が桁違いに多い。読者人口の多さが純文学などとは比較になりませんから。
しかし、ジェンダー差別問題かまびすしいなか、「男なら」とか「女なら」とかを語るのは炎上の危険ありなので緊張する領域。
まあ、「女なら」より「男なら」のほうが、全然かまびすしくないのをいいことに、その隙をねらったわけですが。
ただ、古い漫画ゆえ、「女子供」といった言葉は、今のアニメなら「ピー音」が入るレベルかも?
そんなことよりも、その拙い投稿の趣旨は「勝ち」も「負け」も、忘れるぐらいになってこそナンボってことでした。
60年代末、当時の「ウーマン・リブ」運動にひそかに対抗してつけられた映画タイトル「男はつらいよ」は、男だからっていつも勝ち組にいるわけじゃないんだケド、と言いたかったとのこと。
勝者がいれば敗者がいる。
勝負の土俵に登れるだけでもいいやん、と言うけれど、敗者となれば「登らなければよかった」という後悔にのたうち回るときだってある。
だいたい、「勝ち組・負け組」という言葉って、なんだかなあ。
「勝ち」そのものが目的で、おまけにというかむしろというかそれなのにというか、勝ちの中身への執心が感じられない「組」という言葉が気になります。「負け組」なんて、その劣位だけのラベリング。
負け惜しみを承知で言うと、何が勝ちで何が負けなのか、わからないまま混沌としている世の中がおそらく最も豊穣な状態なのでは、とキレイにまとめたくもなります。
さてローランドさん。
「因みに俺はルームミラーは後続車を見るためじゃなくて、自分の顔を眺めるために使っている。後続車なんてもうどうだっていいのさ。俺にとってね」
このヒト、ここまで「オレ様」をやっても、ちっとも嫌味なヤツに見えん。それどころか、嫌味に思う自分を小さく感じ、このどこまでも爽快なナルシズム、自分にイライラしていない爽快さとでもいうようなこの景色に自分も浸りたくさえなってしまう。
彼が嫌われないのは、承認欲求の充足に他者をいちいち利用しないところ。
誰しも、自分が養分にされるってのはイヤなもの。無理やり敗者にされてるっていう気になったりもしますから。
「俺に勝てるのは明日の俺だけだ」
敵は目の前の相手ではなくいつだって自分だけ。
レフェリーも自分。
これなら、誰を敗者にすることもない。少なくとも、誰をも傷つけなくて済む。
そしてそのように立ち向かっていく姿に人は惚れてしまう。
例えば、周回遅れになってもたった一人、ひたすらゴールを目指すハンディキャップのランナー。
彼・彼女に拍手したい気持ちにならない人はいません。
そしてそれは、かつてへこたれなかった自分への拍手。また今へこたれそうな自分を勇気づけてくれたことへの拍手。
敵はいつも自分。
勝ち・負けが決する場所は、他人がいないところ。思ったより先のもっとずっと遠い、自分しかいないところ。
そう心得ておくということでしょうか。