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世界を素手で触れ、神がこっそり大地に書いた文様を書き取る。武田百合子『富士日記』

目にするものに対する無防備なまでの慈しみ。

 何ということもない日常の細々したことをただ書き記しただけのような、まさしく日記。
 そのぶっきらぼうで放り投げるような物言い。しかしそれとは裏腹に、彼女の書くものには、目にするものに対する無防備なまでの慈しみがあふれています。
 例えば、有名どころのエピソードではこんな風。自分たちの不注意で死なせた愛犬のくだり。

 「ポコ死ぬ。六歳。庭に埋める。
 もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。
(中略)寝入ったときのすすり上げるような寝息がひょっと聞えたように思ったが、それは気のせいだ。
 ポコ、早く土の中で腐っておしまい」

 別のロシア旅行記の「犬が星見た」では、夫の泰淳から
 「百合子、面白いか、嬉しいか」
と聞かれ、
 「面白くも嬉しくもまだない。だんだん嬉しくなると思う」
と返事。
 夫がロシア人女性のことをさんざんに悪態をつくのを
 「私でない女の悪口を聞いているのが、いい気持ちだった」
と夜、日記に残す。

 天衣無縫とはこのこと。
 世界に自分以外にも住人がいると気づく前の幼子の所作のよう。
 欲望を見られる恐れを知らず、世界を素手で触っている。大人たちはその姿になぜか心奪われる。

言葉になる瞬間、他者が入り込む。

 大人になるにつれ、内面に生まれた反応が言葉になる瞬間、するりと他者が入り込む。出たものは、自分の考えなのか他者の考えなのか。
 ほんとうのものは、掴む前に泡のうちに消えてしまっている。
 それを書き留めることの困難さ。

 日記だから読者を気にせず書ける。読者がいないからこそ、本当の自分が書けたんだろう。
 そう思いますか?
 しかし、相手のいない日記なら、誰でもそこに本当の自分を書けるのでしょうか?

 自分の日記を読み返してみても、恥ずかしくなることが多々あります。
 誰も読まないはずなのに、他人を意識して書いた面を見つけた時。
 そこには、自分の欲求を隠すためのウソ八百が並んでいる。
 
 武田百合子の文章では、書き手と書かれた文章との間に、他者がいない。
 彼女が見たものを、読み手は自分が直に見ているような感触にふけってしまう。
 優れたスポーツカーの、アクセルやハンドルと大地との間に余計なものがなく、ドライバーと大地が直結しているかのような、あの感覚。
 この清々しさ。
 だからこそ、誰もが見過ごしてしまう、神がこっそり大地に描いた文様を発見できる。

 自分も彼女のような眼になってものを見てみたいものだとひたすら願うばかり。


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