「知る」はサミシイ。「驚く」はいつもワクワク。だから「不思議をただ驚いていたいんだ」 国木田独歩。
存在理由が欲しい人間
人はどうしたってそこに「理由」がないとどうにも居心地が悪い。
理由って因果や目的、つまりストーリーといってもいい。
でも、悲しいことに、神さまって、たぶん、宇宙の創造物たるものすべてに、なんの存在理由=ストーリーも与えていないのかもと思う。
自分も宇宙も、ただ「在る」だけ。
意味などない。
しかしこれって、考えるほどになんだか怖くなってくる。
この恐怖に耐えきれないから、人間は絶えずストーリーを編もうとする。
ストーリーには結末があり、つまり最後に必ず答えがある。
自分と自然がこうして存在する真の目的・理由がきっとあると思いたいのだ。
でもおそらくは、たまねぎを剥くように、めくってもめくっても、本尊は最後になっても現れない。
存在理由は果たして、ない、のだ。
物語は自分の中にある
「風景画を描くということは、自然の有り様から物語を見つけ出すということ」
そう語る水彩画家・木沢平通さん。
やはり物語なのだ。
描き手が対象に見いだそうとしている物語。それはつまるところ、見ようとしている自分自身の中に生まれてくるもの。
といっても、自然は人間の感情などつゆとも関知しない、恐ろしいほどに無目的な存在。
それでも恐れずにそれに触れようとする時、人の中に驚きが生まれる。
描き手がいま、対象に見いだそうとしている物語は、自分自身の中に生まれた驚き。
その時、そこに新しいストーリーが生まれている。
画家の描く絵にぼくたちは、画家の驚きの心を見ようとしている。
描いた人の驚いた心が見えたとき、それを感動というのだ。
モノそのものを写しとる写真だって、そうだ。
いい写真にはストーリーがある。
撮った人の驚きの精神が見えたとき、心に残る写真になる。
もちろん文章づくりも。
書いていて、筆が走り、自分でも思いも寄らない展開が現れる。
小説なら、登場人物が勝手に動き出す。
自分でも驚きながら筆をすすめる。そうなればしめたもの。
書き手のだいご味がそこにある。
実は、読み手だってそうなのだ。
書き手が驚いてオロオロしている。でも楽しんでやがる。
そういうのがちらちら見える。
これがよかったりする。
計算された表現ばかりされると、つまらなく感じる。
読み手にだってプライドがありましょうから。
漫才のミソはライブ感にあり、ジャズはアドリブが命という。
聞き手はもちろん、演り手も次の瞬間の言葉や音を確信していないという、何とも頼りない事態。
でもそんなスリリングな時空こそが魅力。
考えれば現実世界も同じだ。
確信など、あってないようなものだもの。
驚く、という巨大な能力
作り手がそのとき何に驚き、どう変容したのか。
絵だって写真だって映画だって、はたまた文章だって音楽だって、見どころ、聞きどころ、読みどころは、そこにのみあるといってもいいぐらい。
存在理由を悲しくも問い続けるしかない人間存在。それを知りたい。でも知れば納得してそれで終わり。さみしさがつきまとう。
だが、「驚き」は新しい問いの始まり。異なる世界の存在、その予感にうち震えるワクワクのとき。
遠足の前夜のような。
その果てに決して「理由」は見つからないとしても、いや、見つからないまま、延々と驚き続けていきたい。
国木田独歩は、「知りたい」ではなく、「驚きたい」という言葉で、果てを持たない物語への、人間の飽くなき欲求を表現したのだ。
「知る」は問いの終わり。
「驚く」は問いの始まり。
驚く、という能力は、存在に苦悩する人間にとって、つかの間とはいえ苦しみから逃れられるまたとない救いだ。
使わない手はない。
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