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過去はいくらでも変えられる。歴史学の巨人の講義は学生の笑いで満ちていた。
E.H.カー「(新版)歴史とは何か」 近藤和彦訳 2022年
学生の笑いが絶えない茶目っ気たっぷりのE.H.カー講義録。
望んでいた史学徒をやるんだあ、とくぐった桜並木。
だがしかし、元のただのグレーの街路樹姿に戻るや、早くも色々な目の保養等々に忙しくなり、史学徒ならずとも、文系なら一番に読むべき稀代の名著を、以来40年このかた、本棚に一瞬でもあったためしはありませんでした。
それが件の本。学術書では年に一回あるかないかのヒットとなっているのが、E.H.カーの「歴史とは何か」の新版。
この本は彼の大学での講義を収めたもの。
茶目っ気たっぷりの彼の教室は、いつも学生の笑いに溢れていました。講義は必ず一片のストーリーになっており、最後はキメ言葉で締めくくられます。
80年前に清水幾多郎が書いた旧版では重視されなかった、そのライブ感を新版では再現したというのだから、興味が募ります。
ジャズみたいなものか?
まずは、歴史学をやる連中なら知っている「すべての歴史は現代史である」(クローチェ)という言葉。
なるほど。
歴史を語ろうとする立場は、語り手が生きているその時代の欲望に発しており、何を語るかはその充足を目的としている。
要するに、客観的な事実というものはないのだ。真実は神のみぞ知るのだ。こういうことでしょうか?
E.H.カーもこの本の中でこの言葉に言及します。
彼はどうも、これにもっとアクティブな意味を持たせたかったようです。
カーは英国人ですが、ドイツ人のニーチェも同じようなことを言っています。
「事実などない。解釈があるだけだ」
ん? ジャズみたいなものか?
モダンジャズは元曲があっても、あくまでプレイヤーが主役。
元曲の旋律を触りまくり、跡形もなく崩しまくり、どれだけ演奏者のものにしたかが問われます。
しかし、そのうち、旋律さえ要らねえ、となった時、ジャズは一度死にました。
旋律とはストーリー。ストーリーは送り手・受け手の共通の器なのに。
かくして、ジャズはしかつめらしいプレイヤーだけのものになり、聴衆のいない寂しい芸術になったのでした。
対してクラシック音楽は神に近づこうとする試み。
楽譜は聖典。触ってはいけない。作曲家の真意をどう汲み取り、いかに近づくか、に演奏の真骨頂があります。
歴史学も史料に基づくことが絶対。ここに立つことによって、エンタテイメントではなく、整合性を旨とするアカデミックな「学」となります。
未来に繋がるお楽しみ
ニーチェと違ってE.H.カ―の場合、質実な英国人らしく、クラシックの美も、ジャズの愉悦も、役に立つならと受け入れます。
その上、学者以外にも弁舌巧みで実務に優れた政治家の顔も持っていた彼は、答えは一つではない、と経験で直感している様子。
「すべての歴史は現代史である」
と踏まえた上で、
「歴史は、現在と過去との対話である」
と、未来につながるお楽しみを提示してくれています。どこか陰気なニーチェより断然、アクティブなのです。
ただ、ニーチェの
「事実などない。解釈があるだけだ。神は死んだのだから」
というニヒリズムも、まことにクールでカッコいい。
会社をクビになったとしたら、
「会社などない。Yシャツがあるだけだ。クビになったのだから」
と、達観してしまえば、これまたクールでひとまずカッコいい。
「武士は食わねど高楊枝」かよって?
巨人ニーチェは、ニヒリズムの果てにこそ、本当のスタート地点があると説きました。
そして、E.H.カー先生に従えば、おのれの歴史は固定されたものでなく、現在と過去との対話で如何様にも書いていける。
「すべての歴史は現代史である」のですから。
高く上げてみただけの楊枝も、研ぎ澄ませれば、また本当の刀になるやも知れません。