自分のことを話しているとき、その本当の相手は。 曲を生み出す作詞家・喜多條忠。
その日、喜多條忠がつぶやく「神田川」の詞を電話口ではじめて耳にしていた南こうせつは、言葉に合わせてメロディが勝手に頭のなかで流れ出すのを止めることができませんでした。
詩は「うた」とも読む。
もともと節をつけて詠われるもの。
喜多條の詞は歌いたくなる詞。
自身にふさわしい曲を自ら生むような歌詞。
次のタイトルもそんな気がしてくる歌詞です。
・・
何処にも行かない
曲/南こうせつ 詞/喜多條忠 1976年
手紙なんか書かない 返事がほしくなるから
涙なんてふかない 夏の光があるから
鉄パイプの街並みで 懐かしい人に会いたい
冷たいコーヒーと 暖かい言葉が欲しい
けれど 自分のことなんて とても話せない
想い出なんていらない 明日のじゃまになるから
旅になんか行かない 帰る町などないから
電光時計の下で あてどなく人を待ちたい
淋しい口づけと やわらかな日ざしが欲しい
けれど 自分のことなんて とても話せない
・・
孤独に打ち沈む断絶の時。
でもそれだって都合よく他人を求める自己愛に過ぎない。
喜多條は、そんなアンビバレンツな人の心をそのまま描くことで、むしろ少しだけ孤独を動かそうと試みます。
ふと鏡に映った自分と、いつもの自意識とのあいだ。
そこにある未知のものに期待しているのです。
それにしても、GIBSON/SG Standard model を抱くギタリスト・水谷公生さん。
どこまでも太く粘っこく、ほんとよく鳴かせてくれていること!
音域を絞り、人の声に近づけたSGのサウンドは、心なしかアコースティックライク。
甘くカン高い南こうせつに、まるでペアヴォーカルのように寄り添います。
「自分のことなんて、とても話せない」
「ん? まあそう言わずにさ、話、聞こうじゃないか」
肩を叩いて誰かがどっかと傍に腰を下ろす。
冒頭の頼もしいギターイントロはそんな情景を思わせます。
そしてワンコーラス後の間奏。
「わかるわかる。そうかそうか」と一緒に苦悩してくれているかのよう。
自分のことを話しているとき。
傍にいるその頼もしい誰か。
それはきっと他ならぬ、もう一人の自分、なのかもしれません。
’76南こうせつ武道館LIVE 16mm記録映像
高音質audio版