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日記「茶臼岳、暴君」

今日は那須にある茶臼岳に登った。

標高は1915mで、9号目くらいまでロープウェイでいけるため、その労力にくらべて不釣り合いなほどの絶景を見ることができる。
山に登頂したのは、近所の小さい山を除けば去年初めて登った富士山以来だ。ふだんブーメランの練習くらいでしか運動をしないので、割とお気軽なコースとはいえなかなか体力を使った。
サングラスをしていたので基準が若干赤に寄っていたが、それでも、粘土質の土や玄武岩、安山岩などの色彩は思いの外彩りが多様で歩いていて飽きなかった。

でかい岩

道中でかい岩があった。
マグリットの《ピレネーの城》を思い出す。でかい岩の持つ、人間の時間スケールを遥かに超えた迫力が十全に表現された彼の最高傑作の一つだと思う。藤子不二雄A(◯に囲われたAが出せない)にもたしか「マグリットの石」という短編があった。空に浮いた大岩に押しつぶされる男の話だった気がする。いま短編のタイトルが合ってるか調べたらさだまさしにも「マグリットの石」という曲があることを知った。やはり《ピレネーの城》の強烈なイメージはジャンルを超えて人々の心理の深いところに作用しているのだろう。
この、でかい岩に相対したときの圧倒的物質感、それをペラペラのキャンバスでもって再現しえたマグリットは、よく技術的には凡庸だとか評されることがあるが、それでもやはり一流なのだろう。

下山し、途中殺生石を見る。玉藻前を封印したとされる石だが、おととし真っ二つに割れたことが話題になった。写真はお地蔵さま。親不孝をした教傳という悪童が死んだ場所で、それを祀るために地蔵を建立したらしい。
かなりの数のお地蔵さまはみな手を顔の前で合わせており異様な雰囲気を醸していた。

今日は那須に一泊する。
さきほど大浴場に行ったが、お風呂は何よりも素晴らしい。ぼくはタバコも酒もドラッグもやっていない。そうした嗜好品の代わりに僕が好むのはお風呂だ。つねづね、もし仮にいま大量の現金が入ったとしたら、玄関を開けてすぐ大浴場みたいな家を建てたいと思っている。
昨日から田中純先生の『磯崎新論』を読み始めた影響で、家のスケールではなく、都市のスケールが全部風呂であったらすばらしいなと思うようになった。
建築学科の卒業制作でよく、アーバンデザインのような建築模型を目にするが、そのたびにいつも楽しそうな課題で羨ましいと思っていた。今は絵を描いているが、建築をやるという選択肢ももしかしたらどこかにはあったのかもしれない。まぁ集団行動が好きではないので無理だったかもしれないが。
ともかく、僕の想定する理想都市は、まず道はすべて水路で、しかも温泉であるような都市だ。人々はみな裸で生活し、温泉に浸かりながら移動する。そのため、都市の勾配は限りなく少ない。街は同心円上に広がり、各街区は水門によって連結された高い壁によって隔てられている。
そんな妄想をしていると楽しいが、僕が建築家になって街をデザインする時のことを想像すると、かなりの確率で権力のもつ暴力を存分に振るってしまうような気がする。いままで見て感動した建造物はたとえばピラミッドだったり、カルナック神殿、アテネのアクロポリスや大英博物館で見たマウソレウムの模型、それからさまざまなイメージとして流通するバベルの塔などなど、結構な割合で権力者のために庶民の血が流され、その墓標の上に作られたような血腥いものばかりだ。
街区や道路、モニュメントなどを自由にできる立場に僕があったとして、その場合たとえば自分自身の感覚などという他人からしたら理不尽極まりない基準で街づくりをしてしまうに決まっているのだ。そんなデザイナーはまったくどうしようもない。その地の歴史、感情、法則を無視した暴君でしかない。
しかし、絵はそれが許されている。画面上の独裁者となってもその権威は大きくてもせいぜい10m2前後を支配するに過ぎない。絵描きの良いところ、それは威張りたくても権威が足りずに威張れないところなのだと思う。

朝早かったのでもう眠い。
話していたら寝てしまった妻を描いて、僕も寝よう。

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