日記「田中一村展、斉藤典彦退任記念展」
上野に行き、田中一村展と友人が入選しているフィレンツェ賞展を見る。
それとたまたま日本芸術院が無料展をやっていたのでそれも見る。東山魁夷の作品とかがあった。感想は割愛。
一村は幼少より訓練を受け南画家としてキャリアを開始し、その後色々ありつつ奄美にたどり着く。全体として、作品数も多いし展示方法、設えも工夫があり充実の展覧会であったように思う。
一つ思ったのが、こうしてキャリア初期から通して作品を見てみると想像以上に南画の影響、その重力圏が強いものだったことがわかる。
展覧会の白眉はやはり奄美に移住してから、一村60代の作品だろう。彼の洗練された技術力と、奄美の動植物や風景の持つグロテスクなほどの生命力がせめぎ合い、ちょうど中庸のハーモニーへと落ち着く。
しかし改めて実物を見て、印刷で一村の作品を見たときの感動を大きく超えないと感じてしまった。もちろんメインビジュアルにもなっているアダンの絵だったりの数点は、さすがの本物の迫力に満ちていたけれど、彼の筆が最も才気走っていた作品群(最後の部屋の展示)を見たときでさえその多くは印刷で見たときの鮮烈さを上回らなかったことに少し驚いた。
なぜそう感じたのかと少し考えてみるとやはり先に述べた南画の重力圏ということが大きいのではないかと思う。南画が伝統的に蓄積してきた墨による独特の空間、遠近の作り方がおそらく一村の後期の作品にも拭いがたい影響を及ぼしており、それが岩絵の具で形成される空間とわずかな齟齬を来しているように思えた。
印刷で作品を見ると、墨で描かれた部分と岩絵の具で描かれた部分の質感の差は潰れてなくなり、空間の齟齬も消失し、統一感のあるモダニズム絵画のような平面性が立ち現れてくる。
もちろん、空間の齟齬を魅力と見ることもできるし、実際僕が南画の魅力をよくわかっていないからそう感じるだけなのだとも思う。
一方、一村の再評価の要因として、複製イメージの流通が肯定的な影響をもたらした可能性も否定できないのではないか。
たとえばセザンヌやゴーギャン、ゴッホなどの作品については百万言が尽くされており今更付け足すこともそうそう無いが、その価値の所以のひとつとして、前世代の構築した重力圏を完全に脱していることが挙げられると思う。
例えばそれは宇宙に出て、一つの街を建設するような偉業であると言えるかもしれない。無重力のその街では、人々は地上ではあり得ないような動きで移動し、また、どんな地球の都市にも見ることができないような建造物で溢れている。重力圏を脱して初めてこれらのことは可能になる。
彼らは、前世代の構築した土台を打ち上げ台として利用してはるか彼方に向かった。前世代の声は遠く残響としてこだましているのみだ。
一村にとっての前世代であった南画は、幼少期からの訓練の影響もありかなり強い重力圏を形成しているように見えた。多くの作品においてまだその声は近く、大地もまだ見慣れたものである。それを脱しえた作品ももちろんあり、それらは素晴らしいものだったが、想像以上に南画の重力圏との格闘にその才能を費やしていたように思えてならない。
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一村展をみたあと、斉藤典彦退任記念展へ。
斉藤先生と久しぶりにお話しする。
先生にはどちらかというと学校を出たあとにお世話になったりお話しする機会が増えた。
近作になるにつれ、色彩の感覚が軽やかになり芭蕉のかろみなどを思い起こさせる作風に変化していっているように思う。
その後神田古本市へ行ったものの人が多すぎて2冊だけ本を購入したあとそそくさと退散する。
上野に戻り斉藤先生の展示レセプションに参加し、懐かしい面々と再開する。二次会には出ず、妻の展示の搬入を手伝い、タイ料理を食べ帰宅。23時ころ栃木に到着し、いまアトリエに来た。少し制作して風呂に入って寝ようと思う。
なんか色々と見て喋って疲れたが充実の一日であったように思う。
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