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日記「八幡宮、峠道、庭園」

遅い起床。

天気が良かったので洗濯し、妻とどこか公園か山か、歩くのが気持ちいいところに行こうと車に乗ってあてどなくドライブをする。

途中スーパーのイートインでお昼を済ませ、ナビで出てきた近くの公園に向かうが、車を停めるところが見つからず、断念した。道中、雌の雉のような鳥が死んでいた。車に撥ねられてしまったのだろう。

適当に車を走らせ、気になった看板があればそこに向かうことにした。10分ほど走ると「市指定文化財 樺崎八幡宮」という看板が出てきた。
この看板は何度も見たことがあるものの、実際に足を運んだことはなかったので行ってみると、どうやら足利氏の霊を祀る神社の遺跡であるらしい。

先日の巨石群もそうだが、このような神域とされている場所は、なんとなく木々の色、彩度が高く明度が低いような深い緑の色合いが共通するように思う。写真だとよくわからないが、葉の色がふつう街で見るそれよりも青みがかり、空気遠近法で青く霞んだモナリザの背景の山々のような質感を感じさせる。
この色彩は、日本で伝統的に用いられてきた岩絵具には出せない色味であるように思う。
通常日本美術で使用される緑青は孔雀石から精製されるらしいが、この緑青の色は例えれば透明度のない厚めの落葉樹の葉色に近い。群青もまた同様で黄味がかっている。多々の葉が集まり反射光と影とが濃淡を成す、あの青が日本美術に登場するのは江戸後期、西洋画の影響を受けた絵師の登場まで待たねばならない(気がする)。
西洋画が与えたインパクトとそれによってもたらされた変革とについて、僕の知識は表層をにわか仕込みした程度でしかないが、青という色に対する認識は江戸末期に不可逆の変化を蒙ったのではないか。
もしかしたらそれより古い絵画の青が汚れ黄ばんでいるからそう感じるだけなのかもしれないが、ともかく応挙、若冲あたりの群青の使い方は、油絵の具のあの大気を含んだ青に影響を受けている気がしてならない。

一通り八幡宮を散策し、駐車場に戻ると、亀がひっくり返って死んでいた。近くに池があったので、そこから出て歩いて行った先、なにかトラブルがあってひっくり返り、元に戻れずに死んでしまったのだろうか。
近くでは近所の子供達が遊んでいた。観光地化していない神社仏閣は、死も含めた日常と同化した光景をそこに形作っている。物見遊山で遊びにきた僕たちが言うのも違う気がするが、この適度な静寂が持続してほしいものだ。

八幡宮をあとにすると、峠道への標識が目に入り、そこへ向かう。
初めて通る道だったが、これがなかなか恐ろしい峠であった。側溝に蓋はなく、斜面の側にはガードレールもなかった。昼の光の下だったのでなんとか走りおおせたが夜に来ていたら転落していたと思う。



戦々恐々としながら峠を越えると、隣街にたどり着いた。
いくつかの製材所や社員がサッカーで盛り上がっていた工場を抜けると、場違いなほど美しい日本家屋が現れる。
峠を越え裏手から来てしまったため看板を見逃していたが、着いてみるとどうやらここは、田村耕一という人間国宝の美術館であるらしい。
寡聞にして今日まで田村耕一氏のことを知らなかったが、芸大の教授も務めていたことがある陶芸家であった。美術館の入館は16時までで、数分遅れで入ることができなかった。しかし美しい日本庭園を見学することができたのは僥倖であった。

日本庭園の緑は黄色い。孔雀石から作られる緑青でも表現し得るだろう。そこでふと思い至ったが、日本美術は自然に対する崇高を表現するのではなく、庭や、人間の世界に近い緑を常に表現していたのではないか。そのように考えると、ある程度の距離があって初めて生じるあの青緑、ダヴィンチの、パティニールの、アルトドルファーの、あるいはフリードリヒの、セザンヌのあの青が日本美術に生じなかったのも合点がいく。
峠の恐怖をも孕んだ緑と、聖域とされた場所の緑と、庭園の緑と、それぞれの色合いが帯びた性質の違いを肌で感じた1日だった。

夜、塩焼きそばを作って食べ、ジムの風呂に行き、妻とマリオパーティをした。明日も仕事なのでもう寝ようかと思う。

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