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歌うんだ村、歌わないんだ村
大学一年のとき、茨城県の取手にキャンパスがあって、僕は隣町の柏から通っていた。
取手の駅前には「歌うんだ村」というカラオケがあって、一回も入ったことはないけれど僕はその名前が気に入って、今でも語尾に「〜んだ村」とつけることがある。
どういうことかというと、たとえばコンビニに行くとして、それを誰かに伝えるとき「コンビニに行くんだ村」と言う。だからなんなんだ村という感じだが。僕はそのようにしてその場限りのさまざまな村を日々名付け、誕生させている。
全ての動詞を「んだ村化」できるかというとそう言うわけでもなく、なにか曖昧なようで意外と確固たる基準が「んだ村化」にはあるらしい。
「歌うんだ村」があるなら「歌わないんだ村」もあるかもしれない。歌うんだ村にやってきた旅人は数時間滞留し、歌を歌い去っていく。では歌わないんだ村に来た人たちは何をするのか。それは「歌わないということ」をしにくるに違いない。
それならば人間が歌を歌っていないとき、誰しも歌わないんだ村の住民であるのだろうか?それはどうも直感に反するように思う。歌うんだ村に帯同しつつ、歌わないことを選んだ人間が歌わないんだ村の住民になれるのだろうか。
仮にそれが正しければ、歌うんだ村に住まうよりも歌わないんだ村に住む方がより困難な道である。その村は歌うんだ村の賑やかな祝祭に隠された裏側にのみ存在するのだから。
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アウグスト・ランドメッサーの有名な写真のX's(エクスィーズ。ツイート、ポストのこと。僕しか言ってない)が流れてきた。ナチスの集会で1人だけナチス式敬礼をしていないという写真。彼はまさにこの瞬間、しないんだ村の住民であったに違いない。
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絵を描くということは、領土獲得の原始的な欲望に関係している、ように思う。
白い紙に自らの領土を広げていく。国土と排他的経済水域の関係のように、描画された部分はその周囲を支配する。矩形を意識せず只管ものを描く段階を過ぎれば、その矩形を支配することに目が向く。それらが上手くいったとき、ある誤った全能感が生じてしまう。それはどの領域でも矩形を支配するように調和をもたらすことができるはずだ、という思い込みとも言える。そんな思い込みがあるから僕は文章なんかをこうして発表できてしまう。何か絵を描くように言葉のバランスを取れるのだと思い込んでいるのかもしれない。
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絵を描くんだ村の住人こそ、しないんだ村を一度訪れる必要があるだろう。そこには、支配しようとする力から逃れ続ける潜勢力の予感がある。