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だらけた1日、高木ひとみ◯
きのうは久しぶりにソファからあまり動かず、本当に何もしなかった。
蕎麦を茹でて、ジョンウィリアムズのドキュメンタリーを少しだけ見てほうじ茶をいれて紅茶を淹れてウーロン茶を淹れてYouTubeでオモコロを見てRDR2をして、U-NEXTでヤンキー漫画を読んでふ菓子を食べてふて寝していた。
しかし思いきりダラダラしたことで何かが回復した気もする。冒頭に書き出したように、ぼくは酒を飲めない代わりによくお茶を飲む。中国茶を淹れるための茶器など、中華街にあるお茶屋さんで一式揃って出てきたりすると自宅でもこれを使ってお茶を飲みたいなぁなどと思うけれど、結局は700mlくらい入る安くて丈夫な急須を使ってしまうだろう。
昨日起きたことといえば他にあまりない。いや、そういえば妹からTverでかもめんたるのフードファイターの夫妻のコントが送られてきてそれを見て笑ったりもした。自宅ではテレビが映らないため、最近の芸人のネタを見る機会があまりない。M-1もリアルタイムで見ないとなかなか追いかける気にならず、ここ数年見ていない。
笑いの感覚というのはみなそれぞれ何処で、なにで醸成されるのだろう。僕の場合はおそらく藤子・F・不二雄とザ・シンプソンズによるところが大きい気がする。芸人だとハリウッドザコシショウと高木ひとみ◯が好きなのだが、そう考えると僕はキャラクターを重視しているのかもしれない。ひとみ◯などはそのままシンプソンズに出演できそうだ。
何を発言していてもなぜか面白くなる人というのはいて、その人の発言を文字起こしして後から読み返して大したことは言っていなかったとしても、言い方のリズム、表情などが内容よりも重要であることに気付かされる。
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中学生のころ、担任がなぜかミスタービーンの映画を授業中にかけ始め、困惑する僕らを尻目に先生が一人で笑っていた。映画が終わり、担任はどうやら僕らが笑わなかったのが不満だったらしく、「まだお前らにはこの高いレベルの笑いがわからないのか」みたいなことを言って怒っていて、その理不尽さにもまた皆で困惑していた。
ミスタービーンの笑いのレベルが高いか低いかは置いておいて、そもそも笑いにレベルの高低は存在するのだろうか。「ギャグセン高い」と誰かが誰かを褒めるとき、その基準はどこにあるのだろうか。
まぁそれを明示化する元気も知識も今はないが、なんとなく笑いのレベルの高低というものは存在する気がする。でなければ賞レースの審査も成り立たなくなってしまう。審査基準が確固たるものであるかどうかはわからないが、すくなくとも個々人のなかに、ある程度客観的だと主張できる程度の基準は存在するということだろう。
ただ、点数をつけるということの難しさもあると思っていて、僕はYouTubeの高木ひとみ◯が渚になりきって質問に答えるという動画が本当に好きで、とくにひとみ◯がアルミの仏像(?)を顔と動きで表現する一幕は何度見ても笑ってしまうのだが、これが賞レースで点数がつくかというとたぶん難しいだろう。
そう考えると僕にとっては最高レベルに面白いものも別の基準ではそうでもなくなってしまって、あらためて基準の正当性を担保することの難しさを感じる。
この動画はYouTubeの全動画で一番好きなものだ。本当に面白い。仮に僕が生徒たちになぜか授業でこれを見せたとして、そのとき生徒みんなが笑いもせずにぽかんとしていたら怒ってしまうかもしれない。そう考えるとあの時の担任の気持ちもよくわかる。笑ってくれなかったら「まだ君たちにはこのレベルは早すぎるか」と言ってしまいそうだ。
かつてないほど中身のない日記だが、極めてダラダラしていた昨日の日記としては極めてふさわしいものかもしれない。