日記・2024.10.9
雨。今日は仕事だ。電車に乗って東京へいく。
街の一番大きな橋が架け替えの工事をしており車両通行止めになっているので、普段は車で行くのだが歩いて駅まで行くことにした。
最初は律儀に橋の歩道を歩いていたが、高校生たちが車道の真ん中を歩いているのを見て真似してみたら気分が良い。
『28日後』などポストアポカリプスものの映画を思い起こす。
電車では途中で中断していたカール・へラップ『アルツハイマー病研究、失敗の構造』(梶山あゆみ訳、みすず書房、2023)を読む。
まだ東京に住んでいたとき、朝4時くらいに火災報知器が鳴り響き、慌てて下に降りると認知症と思しきおばあさんがエントランスに1人佇んでいた。ドアの開け方がわからなくなり、火災報知器の緊急ボタンを押してしまったらしい。
おばあさんは溶けたアイスでいっぱいになったビニール袋を持っていて、「〇〇ちゃんはアイスが好きだから買っていってあげようと思って、でも道がわかんなくなっちゃったの」と言っていた。「たしかこの辺にお家があったのに」と、おそらくはるか過去の記憶を生きているようだった。
認知症とアルツハイマーというのは異なる病気である、というか認知症の中に様々な異なる原因の病気があるらしい。
上記の本によれば、アルツハイマー病の研究はアミロイドというタンパク質にその原因を求めるという方向に突き進み過ぎたことに過ちがあるらしい。アミロイドとアルツハイマー病に関係があるのは間違いないらしいが、それが因果関係であるかどうかは怪しいのだという。
原因と結果を混同したこの方向性によってアルツハイマー病の研究は10〜15年遅れてしまったらしい。
仕事についてはあまり書けないので割愛。
午前で早抜けさせてもらい、友人Kと集合して友人水谷の個展に行く。
水谷栄希個展「花摘みのecho」
この机の上の手作りの花は、ひとり一個持って帰っても良いという。
白い空間に明るい絵。裏から彩色され、かろうじて表に出てくる図形によって構成されている(図1)。
本人によると、裏にはかなりストレートな絵が描かれているらしい。それをあえて幽かな表出に留めているところに彼の絵の魅力と難しさがある。
僕が制作の際に依拠したアガンベンの「非の潜勢力」すなわち「しないでいることができる」という力ともまた異なり、「したけど隠す」という行為の痕跡はまた、紙で作られた花々にも見てとることができる。絵の具で彩色された紙は広げれば抽象絵画のようなパターンが見えるに違いないがそれが蕾のように閉じた花のうちに隠されている(図3)。
そしてまた、本来は大きく通りに開かれた窓から見える展示空間も水谷によって掛けられたカーテンによって通行人の視線から隠される(図2)。
展示を見終わりファミレスで話し込む。
しばらく会えていない共通の友人について、興味深い話があった。
僕はその友人、仮に鈴木とするが、鈴木が夢にしばしば出てくる。毎回パターンは決まっていて、鈴木を見つけた僕が久しく会っていないことから喜びと若干の不安の混じった感情で彼に話しかける。
鈴木はこれまで会っていなかった年月など無かったかのようにあのときの剽軽な態度のまま応対してくれ、しばし歓談する。
鈴木に会ったと思ったら夢だった、ということが続いていたため今回も夢ではないかと疑うが、どうやら夢ではないらしい、元気そうでよかった…。
と、いうパターンの夢である。
これとまったく同じ夢を水谷は見るという。
彼にまつわる青春の蹉跌が僕たち二人に同じ夢を見せるのだろう。友人Oが夢ではなく次元の狭間にいる鈴木に実際に僕たち二人が会っているのだという説を唱えた。水谷の夢の舞台は海岸近くの科学館?のような場所だったというが次元の狭間がそんな穏やかな場所だったら良いが。
今日は終電を過ぎ、栃木には戻れないので池袋のカプセルホテルに泊まろうと思う。明日も朝から仕事だからちょうど良い。