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ボルタンスキー《最後の教室》

昨日は仕事に行く前に一つ展示を見た。詳しくはのちの機会で紹介する予定。

昨日も書いたけれどこの時期になると仕事の関係上、いろいろなことを考える余裕が少なくなる。別に働く時間としてはわずかに増えた程度なのだが心持ちとしてはまったく変わってしまうのは興味深いといえば興味深い現象である。

昨日古本をネットで注文して、そういえば去年まではあれほど行っていたジュンク堂に行かなくなったことに気がつく。なぜかといえば通勤のルートからほんの少しだけど外れてしまったことと、それからhontoがなくなってしまったことだ。
記録アプリとしても在庫検索としても重宝していただけにとても悲しい。それからは地元の本屋だったり通販だったりブックオフだったりで本を買うことが増えた。

さて、こんなときでも何か書けることはないかと記憶を浚ってみると、そういえば越後妻有で行われている大地の芸術祭で見たクリスチャン・ボルタンスキーの作品に感銘を受けたことを思い出す。というわけで以前の日記から引き続き印象に残った作品について。5個目。

5.クリスチャン・ボルタンスキー《最後の教室》

この作品は学校一つを利用した大掛かりなインスタレーションで、特に僕の印象に残っているのは最初に足を踏み入れることになる体育館。
体育館はかなり暗く、扇風機の風に煽られ揺れている吊り下げられた裸電球の光だけが火の玉のように怪しく狭い範囲を照らしている。床には干し草が敷き詰められ、一歩足を踏み入れた瞬間にその香り、どこか落ち着くものの、体育館という場には些か不似合いな青い香りが鼻をつく。
順路を進むと、体育館のステージにのぼることになる。そこでは暗さと不安定な足元で慎重に進む人々を見下ろすことができる。つい先ほどまでは自分がその最中にいたものの、一旦安全なステージに登ればすっかりそのことを忘れて右往左往する人々を少しの滑稽さとともに見てしまうのだった。

この構造は示唆に富む。まず僕たちが辿ってきた二つの場所、すなわち干し草の敷き詰められたスペースと一段高いステージは、もともとの小学校での役割としてはそれぞれ児童がいる場所と教師が立つ場所である。
ステージは単に座標として高いだけではなく、立場としても上の人間がいる場所であり、それを極端に表現してしまえば抑圧者の立つところであるといえる。そして眼下、干し草の敷き詰められた、かつては多くの児童がすし詰めになっていただろうフロアは被抑圧者の場所であろう。
小学校という場が持つ記憶を少し掘り起こしてみれば、少数の抑圧者に多くの被抑圧者が従属する光景を思い浮かべることができる。その光景がここでは谺しているのではないか。僕たちが干し草を抜けてステージに登ったとき、不安定な足元での四苦八苦がまるで存在しなかったかのようにその見晴らしの良さに美的な快楽を覚える。しかしその見晴らしの良さはこの小高いステージと地べたに近いフロアという権力の非対称性から生じている。

この不均衡を一人の人間に立て続けに体験させることで、被抑圧者と抑圧者の二つの立場がいかに合理的な理由ではなく、ただその場にいるからという理不尽によって決定されうるかを鑑賞者に肌で感じさせるような、そんな力を持つ作品であるように思う。
また、干し草が強制収容所の寝床を想起させることからも、あながち僕の勝手な想像とも言い難いのではないかと思っている。

しかし、僕が数年前フロアとステージを移動してその立場の変化にどうこう考えているあいだも、シリアの強制収容所では非人道的な所業が日常化していたわけで、その現実の前に何が言えるのかと思う。国際政治や情勢にあまり明るくない僕程度の知識と感覚でも、西側諸国の欺瞞がいよいよ煮詰まってきていると感ぜられるようになってきている。

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