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日記「岩宿博物館、ガラスケースのミニチュア」

昨日はあまり寝られなかった。
曇天も相まって気怠い午前中。

隣町の隣くらいの距離にある岩宿博物館に行く。
旧石器時代の遺跡や石器、化石などが展示されていた。岩宿に何が出土しているのかなどは詳しく知らなかったが、日本にも旧石器時代、人が定住していたことを初めて実証したのがこの岩宿遺跡であったらしい。およそ3万年前、関東平野の端っこでご先祖様が狩猟採集していた。

ツノジカを追いかける人間。
こういうミニチュアというかジオラマというか、そんな感じのものが設置してある博物館が好きだ。
こういうジオラマは大概アクリルかガラスの箱で保護されている。その四角く切り取られた世界の断片は、空間だけではなく時間もまた切断された一瞬に留まっていて、この男たちは永遠にツノジカを捕えることができないし、ツノジカもまた永遠に人間たちの手から逃れ去ることができない。
それはまた、遥かな古のときを象っているからこその魅力でもある。自らのときとの連続を感じることが難しいほど隔たったときは、それ自体独立した閉鎖的時空間を形成するように思う。その閉鎖性が四角いガラスケースに閉じ込められたとき、一段と満ち足りた空間となって、古への憧憬を呼ぶ。

古代ギリシャにおいて、文字の革命が起こる前、すなわち叙事詩の時代が所謂古典期よりも遥かに遡る半ば伝説上のものとなっているが、むしろ時計をもっと思い切り遡って旧石器時代まで戻ってしまうと、そこに見出せるのは絵画であり、果たして彼らに音楽が備わっていたのか、どうなのだろう。
音楽よりも絵画が古いことは少し考えにくいから、たぶん彼らも歌っていたのだろう。

古への憧憬と書いたが、彼らはこんなマンモスと戦わなければならなかったわけで、それはちょっと僕には無理な相談だ。
この大きさへの畏怖というものは、かつて旧石器時代でマンモスと戦っていた、あるいは戦えずに隅で震えていたご先祖様の記憶が受け継がれ、本能と化したものなのだろうか?人類学者ティム・インゴルドによればそのような考えは間違っているという。

曰く、「人間とは、結果ではなく、一区切りなのである。人間は、人間が直面する条件(中略)に、あらゆる瞬間に反応しながら作られる自らの生の産物である。」(『人類学とは何か』奥野克己/宮崎幸子訳、亜紀書房、p.47)

いくら大昔にご先祖様がマンモスと戦っていたからといって、僕にその力が眠っているわけではない。
屈強な男たちがマンモス肉を洞穴に持ち帰れたからといって、今の男たちがマンモスに勝てるわけではない。
かといって戦えないということでもない。もしもマンモスが出現したら、僕には僕のしかたにおいてマンモスと対峙するということなのである。ただ、いまマンモスが現れるわけではないので結果はどちらかわからないというだけのことだ。 

ガラスケースの小さな岩宿人も、切断された一瞬において、ツノジカを追いかけるという反応をし、固定されている。時が止まった彼らには次訪れるであろう瞬間に反応することはできない。成功も失敗も、悲しみも喜びも存在しないガラスケースの内側では、「一区切り」の長さは限りなく0に近い。

僕はといえば1日をとりあえずの一区切りとして日記などを書いている。ガラスの外にいるという証が一日のなかいくつも存在している。博物館の庭でみた池の濁った緑色に、遠くに霞む山々に、アトリエの寒さに。たまにしか行かないスーパーの駐車場に、普段と違うコーヒー豆に、久しぶりに使った香水の香りに。

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