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日記「ハイキング、ゼーバルト」2024.10.14
朝遅い起床。
買っておいたパンに蜂蜜をかけて朝ご飯にする。
YouTubeでMicrosoft Flight Simulator 2024の動画を見漁る。地球のデジタルツインを自由にフライトすることのできるシミュレーターだが、今作から飛行機から出て、徒歩で散策することもできるようになるらしい。
前作のMSFS2020でも、おそらく一生行くことのないヨーロッパや中東のまったく知らない小さい街などに飛んでいって、そこにも間違いなく生活があることを想像して不思議な気持ちになったりしていた。
世界に限らず、日本、関東などに限定しても一生足を踏み入れることのないであろう地がありふれていることを考えると人間の生の限界をありありと感じる。
MSFS2024でもそんな気持ちになれるのを今から楽しみにしている。
正午ころ、蕎麦が食べたくなり駅前の立ち食い蕎麦屋に行く。立ち食いには立ち食いの美味しさがある。麺は茹で置きでふにゃふにゃだが、味の素なのだろうか、パンチのある濃い出汁が美味しい。
いい天気なので織姫山を歩く。
階段が急で思わず息切れしてしまった。運動不足。
頂上付近には織姫神社があり、いつもはそこまでしか行かないが今日はもう少し上まで行ってみた。
噴水広場という場所があり、かつて来たことがあるような気がするが、定かではない。
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噴水はおそらくだいぶ前に止められていたが、周りの花々は人の手が入っているようで、数日前に行った川原の親水公園ほどは雑草の侵食はひどくなかった。
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僕はW・G・ゼーバルトが好きだ。この場所はゼーバルトの作品中に登場しそうな趣がある。優雅さと寂れたようす、人工と自然との境界がゆっくりと混じり合っていく中途の残光に満ちている。
ゼーバルトのなかでも特に僕が好きなのは『土星の環』である。メランコリーの相のもとに連想的なエピソードや光景が、際のない織物のように綴られていく。
織物でかつて栄えたこの街に漂うノスタルジーと、『土星の環』作中でのペシミズムは風合いが似ているように思う。
織物の関係で言えば、ベラスケスの傑作《アラクネの寓話(織女たち)》を思い起こす。この作品もまた、敗北が決定づけられた人間の無常を描いているのではないか。それでも、すべてが終わってしまったあとの荒野を描くのではなく、敗北が決定づけられる直前の人間の輝きが描き出されているところに人というものに対するベラスケスの眼差しが感じられる。遠い未来には、自然の諸力に間違いなく屈することになる人間文明を、神と織女のアレゴリーを用いて表現しているようにも思える。
植物に侵食されつつある人工物を見ると自分自身のタイムスケールを遥かに超えたものを感じ、悲しくなってくるのであった。
山から降り、ほどほどの疲労感を感じながら昼下がりにアトリエに行く。少し制作をしていると、実家の方に大学の友人が来る。1時間くらいしか話さなかったが、数年前と全く変わっておらず、安心する。
彼らが帰ったあと、制作の続きをし、150×90cmのパネルに水張りをする。
晩御飯の買い出し。湯豆腐が食べたくなり豆腐を買う。健康的な晩御飯。
21時過ぎ、高校からの友人とお茶をする。
子供ながらに理不尽な経験をして悔しい思いをした話で盛り上がる。夜、友人からの誘いはいつになっても嬉しいものだ。論語の中で唯一暗唱できる「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」という一節を思う。今はどうか知らないが我が街の子どもたちは論語を覚えさせられるのであった。それはここに足利学校という日本で一番古い学校があった名残であるが、そのように誇るべき事実もまた、ゼーバルトの描く長い衰退をより一層感じさせるのであった。
在りし日の、教育で栄え、織物で栄えたこの街を想像する。図書館の資料室でむかし、かつては高島屋があったというこの街の大通りで催されていたお祭りの写真を見た。モノクロームの少し高い視点から写されたその写真には、往時の熱気が確かに記録されていたが、今はもうその写真に写っている人々は全員亡くなっているのだろうと思うとありがちな感傷に浸ってしまう。
そういえば『土星の環』の末尾は絹についての文章で結ばれていた。
同時代のオランダでは、死者の出た家の鏡のことごとく、風景や人物や野の果実の描かれた絵画のことごとくに、喪のための黒絹の薄紗を掛けておく習慣がある、それは肉体を離れて最後の旅路をたどる魂が、わが身の姿やいまとこしえに失われゆく故郷の景色を目にすることによって、惑いを起こすことがないようにとの配慮からである、と。
この街もこの作品も、織物と喪、メランコリーで満たされている。