日記「日記」
僕の住む街では先日橋の架け替え工事が始まり、しばらくは見慣れた風景がクレーンやショベルカーと共にあることになろうが、いよいよ本格的な土木作業に移った現場の只中を歩いて駅まで向かえば規模の大きさ、その迫力に案外工事中であるのも悪くないと思えた。
この時間に出勤するときはいつも途中乗り換えの駅で25分ほど待つ時間が生じ、これが真夏や真冬だと甚だ骨身にこたえるのだがこの頃はまるで自分の体温が外界へと緩やかに浸出していくような心地よさの日和である。
しかし陽光は眩しい。むかし買ったサングラスをどこかに無くしてしまい、代わりに普段は紫外線に晒されることによって色が変化する度付きの透明サングラスをかけているのだが今日のようにコンタクトレンズをつけているときはこの濡れた二つの曲面に直接光線が降り注ぎその奥に鈍痛を蓄積していく。
その鈍痛を除けばきわめて良い日だ。街中を行く人々も大気中に舞う微粒子も、自らの鼓動も、あらゆる動きが緩慢に感じられる。ここでは時間さえも暖かな陽光のもとに長く留まろうとその歩みの速度を緩めているように感じられる。
けれどもそう思えたのも束の間、仕事をしていたらいつの間にかすっかり短くなった日が西の向こう側へと落ちていて、さらに眼窩にたまる澱のような鈍痛はそのまま左のこめかみを中心とした偏頭痛へと移り変わっていった。
こんな有り様で電車に揺られれば、痛みを引き起こす沈殿物が頭蓋のなかで撹拌されているイメージが脳裏を巡り、余計に痛みを悪化させる。
車内は混んでおり、朝の朗らかさは自分の身体からもまた同乗する名も知らぬ老若男女からもすっかり失われていて、かといって夜の静けさにもまだ身を浸しきれていない我々である。緑色の生地の椅子をLED蛍光灯の高速で瞬く光が照らしていて、しかし窓の外を見遣れば国道の脇に林立する電灯が遠くに見えるだけの暗い水平が広がっている。さすがにここまで来れば車両の人口密度は減じ、各々が来たる夜にむけて心地よい陽の中でのそれとは異なる種類の緩慢さに身を委ね始めている。
その中で僕は心臓の脈動を生真面目に追いかけるこめかみの痛みによって、未だ我が身のみが昼の明るさに囚われていることを実感するが、駅に到着し大きな川が大気を冷やす街を20分も歩けば自ずと昼の光をすっかり忘れるだろう。
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思考はたとえば水中での呼気のように、自己から発してしばらくはその輪郭を保っているものの、しばらくすれば水面へと達し大気のなかに拡散してしまう。
そうした一つの泡沫を気まぐれに選んでその輪郭を粗描するのが日記なのだとすれば、一日の中、捉え損ねたものの多さに記憶を儚む。
今日のように仕事以外何もしていないような一日でさえ、大気に溶けていった泡は悲しいほど多い。だがむしろ世界には皆が人知れず手放した記憶で充溢していて、それにふと触れるとき、まるで見知らぬ新しい日に対してさえも既視感を感じることなどがあるのだろう。