
素晴らしい日、廃墟
昨夜、最寄り近くの駅で人身事故があり僅差で目的地までつくことができず、迂回し帰った。
隣の駅につき、そこから思わぬドライブになってしまったが、帰路の途中にあるローカルハンバーグチェーンがお得なフェアをやっていて不幸中の幸いと、ハンバーグを食べた。
店内では木村カエラの「butterfly」がかかっていて「butterfly 今日はいままでのどんな時より素晴らしい」と歌っていた。この曲は結婚式でかかることが多いらしく、そもそも結婚式でかけるために作られたような感じもする曲だが、結婚式は果たして本当に「どんな時より素晴らしい」日なのだろうか。
結婚式をやっていないので僕にそれを判断する資格はないのだけど。
素晴らしい日というのは、案外そのときには気がつかないようにも思う。たとえば大学に合格した日、そのときはなんと素晴らしい日なんだと思ったものだが、あとから思えば、合格する前、予備校の休憩室で友人と授業後にコーヒーを飲みながら喋っていたときの方が特別な瞬間だったのではないかと感じる。
イリヤ・カバコフとボリス・グロイスの対談で2人が大衆と、歴史的人物の対照的な在り方について話していた。大衆はその匿名性により、大衆という存在として半永久の生命を得る。それに対して歴史的人物や、あるいはそこまで行かずとも個人としては名を馳せた人々は歴史の流れに点として穿たれ、有限の生に留まらざるをえない。概ねこんな内容だったような気がする。
これは人に対しての話だけど、記憶や出来事に関しても似たようなことが言えそう。つまり、なにか特別なイベントは点であって持続を持たず、むしろ生の水流に溶け込むような、他愛ない出来事のほうが永く在り続けるのかもしれない。
ジムのお風呂の脱衣所でおじさんが「入院すると健康のありがたみがわかるよなぁ!」と大声で誰かと話していた。虎舞竜(なんだそりゃ)の歌ではないが、なんでもないことは無くならないと気がつかない。
そういえばアトリエに向かう途中の道角、建物が取り壊されていたが、一体なんの建物だったかいまや思い出せず、その記憶の覚束なさに一抹の寂しさを覚える。
寂しさが「覚える」と表現されるのは面白い。忘却のその隙間を埋めるのは、感情であることをうまく表しているではないか。
もはや何があったのかも忘れてしまったとしても、消失の跡形が悲しみであることだけははっきりとしている。
*
廃墟とは、当然だがこの喪失に深く関わっている。その造形的な魅力を讃えるのはある危険を伴っている。世界にはスヴェトラーナ・ボイムが指摘するように「廃墟を許容することが生活の悲しき必要性」となっている場所がある。
その必要性の前に美を見出す能力は沈黙するほかない。