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日記・2024.10.8

朝、郵便局員の来訪にて起床。注文したコンタクトレンズが届く。朝早い到着だった。

しばらくすると妻が起きてきたので歩いて1分くらいのところにできたパン屋さんに行く。この店はいつ行っても焼きたてのパンが並んでいて、お昼には全て売り切れてしまう。ソシソンというソーセージの入ったパンが非常に美味しい。

お昼前、意を決して半年くらい床に置きっぱなしにしていた掛け布団をコインランドリーに持っていく。乾いた布団の匂い、焼きたてのパンの香り、僕の好きな匂いが今日は2つも漂う良い日だ。これで空が晴れていたら言うことがないのだが。
洗濯が終わるまでのあいだ、ココスのドリンクバーで時間を潰す。マダムたちのおしゃべりをBGMに本を読む。

お供はこの2冊。
パウル・ツェランの「死のフーガ」という詩がある。細見和之のこの本に飯吉光夫訳の詩が載っているが、これが素晴らしい。先日池袋のブックオフに中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集』第一巻が売っていてよっぽど買おうかと逡巡したあげく、「死のフーガ」の翻訳のリズムが飯吉訳に馴染むと気になってしまい買わなかったが、今になって少し後悔している。

……「黒いミルクをのむ」、「宙に墓をほる」という形で、抑留されているユダヤ人たちの苛酷な現実がみごとな暗喩とイメージで描かれていて、それに対して、ドイツ人側の、恋人へ手紙を書くロマンティシズムと日常化した殺戮、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトの音楽といった「高級」な文化の愛好とナチズムという野蛮の共存が、このうえなく鮮烈に抉り出されている。タイトル「死のフーガ」は作品の内容と形式をこれまたみごとに名指している。複数の主題が対位法をつうじて追いつ追われつ展開してゆくバッハで馴染みの音楽技法は、ナチズム下の収容所において「死のフーガ」へと転じるとともに、この作品において、その言語を絶する出来事を記憶しつつ表出する、無二の表現形態となっている。

細見和之『「投壜通信」の詩人たちー〈詩の危機〉からホロコーストへ』(岩波書店、2018、pp.227-228)

以上は「死のフーガ」に対する細見の分析であるが、「内容」と「形式」の緊張感みなぎる関係こそすぐれた芸術の条件であるならばこの詩こそ傑作の名に相応しい作品だろう。ただその完璧さゆえに、ツェラン自身も言うようにある種の総決算として、戦後ドイツの反省のアリバイとして機能してしまったのだとも言える。
「最高傑作」はなにか一つの流れを終わらせてしまうように思う。もはやつけ足すものも削りうる箇所も無く、円環が閉じてしまう。

ランドリーでの洗濯乾燥が終わり、清潔になった布団をビニールバッグに詰めアトリエへ向かう。雨が降っているので家に布団を持ち帰るのは後回しにする。
僕の絵の進め方は絵の具を一色ずつ置いていき、拭い、乾くのを待つというプロセスだが、今日みたいな雨の日には乾くのが遅くじれったい。待つ間に昨日買った本を読み進める。

昨日は気が付かなかったが、この本に煙草の匂いが染み付いている。僕は煙草の匂いは好きでも嫌いでもない。それはそうと昨日のキノコの匂いではないがどことなくノスタルジーを感じる匂いではある。
叔父の車、免許合宿の相部屋、学生のころ友人と話し込んだカフェの喫煙室など今はおそらく存在を許されていない煙い空間が懐かしく思い出される。
煙草の匂いの染み込んだ本は、燻蒸のように虫除けになっているかもなどと思う。実際のところは知らないが。

なんだか日記が匂いのことばかりになってしまうが妻とこんな会話をした。

「この前銭湯の椅子に座ったら前に座ってた人の加齢臭がついちゃったよ」
「加齢臭って周りにいないからどんな匂いかわかんない、どんな匂いなの?」
「色で言ったらウグイス色って感じ」

どんな匂いと聞かれて色で答えるのは我ながら意味不明だが、加齢臭を嗅いだときにイメージされる色は紛れもなくウグイス色なのだ。
この連想はなぜだろうかと少し考えてみると、以前古くなった石鹸から加齢臭がしたことに思い出した。つまり加齢臭とは油の酸化した匂いなのだろう。
古くなった石鹸から私は蝋人形、それもペストで亡くなった死体を迫真のリアリティで表現したガエターノ・ジュリオ・ズンボの蝋人形を想起した。加齢臭から即座にイメージされたウグイス色はこの(屍)蝋の色ではないか。

Photo by Curious Expeditions
https://www.flickr.com/people/curiousexpeditions/

現代にいたるまで、蠟を用いた造形美術には、その起源から存在した葬祭との連関が失われたことはない。それというのも、人間がこの素材の特質を認識したときから、蠟は、人間と聖なるものとの、そして人間と死者の影との関係を媒介する役割を果たしてきたからである。

マリオ・プラーツ『官能の庭-バロックの宇宙』(伊藤博明・新保淳乃 他 訳、ありな書房、2022、p.154)

だとすれば加齢臭はまさに人間と聖なるものとの狭間において匂っているということだろうか。そういえばお葬式の線香やその他お香の匂い、そして死者から立ち上る匂いにもウグイス色を感じる。聖と俗のあいだで死者を送る空間は緑と黄色のあいだ、木々と光のあいだの色に包まれている。

社会は死の気配を遠ざける。その恩恵に十分与っている僕ではあるが、とにかく加齢臭を悪しきものとして滅せようとする洗剤やボディーソープの広告になにか首肯しがたいものを覚えるのもまた確かではある。

家に戻りぼんやりする。それでふと思ったのだが、芭蕉の有名な句。

石山の石より白し秋の風

この句にはなぜか昔から心を惹かれる。松浦寿輝は著書『青の奇蹟』(みすず書房、2006)で「海くれて鴨のこゑほのかに白し」とならび上記の句を共感覚のリトルネロと表現している(p.47)。
鴨の声の句は聴覚と視覚の共感覚だが、石山のほうはどうか。芭蕉のことを何も知らない素人の想像だが、これは視覚と嗅覚の共感覚なのではないだろうか。春の風はむせかえる萌黄色の匂い、夏もまた一段と濃い緑、あるいは群録、冬の風は鼻腔を貫く寒さがむしろ肉の桃色を感じさせる。あるいは土の焦げ茶色。
秋の風は四季の中で1番透明なように思う。そして石もまたその匂いには色がついていない。聖とか俗とかそういう人間的時間の外にあるものの非-匂いである。

そんなことを考えた。ちょっとだけ休憩するつもりがしっかり2時間休んでしまった。今からスーパーに行き、晩御飯の献立を考える。それから時間があればアトリエに行き作業の続きをしたい。

明日は朝から仕事なのであまり夜更かしはできないが。

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