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「アシックス、憧れる人々」
今日はものすごく混んでいた隣町のアウトレットに行ってまた靴を買った。
ここのところアシックスの靴を買っているが、それというものの出勤の日は一日5km近く歩くのに加えて基本的に仕事は立ちなのにも関わらずその辺で買ったスリッパのような安い靴を履いていたら腰に違和感が出てきてしまったからなのだ。
アシックスの靴がクッション性が良いということを聞いて、それならばと一足買ったらなかなか良かったので追加でもう一足買ってみた。
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普段僕はショッピングが苦手で、服などを買おうと色々見ていると尋常ではないくらい疲れてしまう。しかし今日気がついたが靴を見ていたらあまり疲れない。
結局服のショッピングが苦手なのは、なにをどのような基準で選べば良いか皆目見当がつかないからなのかもしれない。すべて同じ服に見えてしまう。たまに良いなと思うものがあったりすると10万円くらいして、とても手が出なかったりする。
良いと思ったものが高いというのは、もしかして見る目があるのではないかとも思ったが、おそらくそうではなく、僕が服を単体で見ているという証でしかないのだろう。つまり、様々な服の組み合わせの妙がファッションの真髄であるとすれば、僕はそれを理解できておらず、単体での特徴がわかりやすいもの(例えば刺繍が派手だったり形が複雑だったり)を良いと思いがちで、そうなると必然的に値段が上がるということだ。
お洒落な人は一体いつそれを学ぶのだろうといつも不思議に思う。
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僕が羨望というか憧憬というか、そんな眼差しをむけてしまう類の人々というのがいて、それが「一体いつこんな感じになったのだろう」と思わせるような人たちだ。
たとえばパッと思い浮かんだのが芸人の椿鬼奴。酒焼けなのかタバコ焼けなのかわからないがしゃがれた声にすれた出立ち。しかし生まれた時から酒焼けしていたはずはないので、人生のどこかの時点であの感じになったのだと思うが、まるで生まれた瞬間からあんな感じであるかのような自然さがある。いつも行くジムの風呂の清掃の5、60代の女性も椿鬼奴風だ。酒焼けしたしゃがれ声にパーマのあたった髪がアメリカの推理ドラマ「ポーカー・フェイス」でナターシャ・リオンが演じる主人公にもそっくりで、最初からこうであったはずはないのに、それ以前が全く想像できない。
そんな人々を一種の憧れとともに見てしまう。他の例を挙げれば楽器が上手い人や、タバコの吸い方が板につきまくっている人、ヒゲのダンディ。あと最近なぜかはまっている米米クラブのボーカルの石井竜也のような胡散臭さとスター性の入り混じった人などなど。
彼ら彼女らの、そうなる以前のことが全く想像できない、その今への充足に憧れるのだろうか。
映画「スティング」でポール・ニューマンが演じる詐欺師がまさにこんな感じで大変かっこよかった。いったいひとはいつダンディになるのか。あと以前書いたが僕の一番尊敬する職業であるマジシャンもいったいいつ人はマジシャン然とするんだという想像がつかず、憧れてしまう。
そういえばダンディたる芸術家についての本で阿部良雄『群衆の中の芸術家』(筑摩書房、1975)という本があったなと思ってなにかそこから引用でもしようかと本棚を漁っていたらテッド・チャンの『息吹』(大森 望訳、早川書房、2019)を見つけてそちらを読み耽ってしまったらこんな時間になっていた。これは本当に傑作短編集だと思う。ぜひ未読の方は読んでほしい。
靴も買えたしそのあとにアトリエに行き絵も描いた。それなりに充実した一日であった。