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日記「果たされぬ抱擁」

仕事に行くため駅に向かう途中、空き缶と空き瓶がポイ捨てしてあった。

ポイ捨てをするマナーの悪さと、瓶と缶を寄り添うように置く感受性とが並存していて思わぬ面白さを感じる。
この二つの物体の距離、それから潰された缶の形がなんだか人のカップルのようで、絶妙な詩情を醸している。点で接しているだけで、ただの瓶と缶に、どことなくよそよそしい親密さを感じる。

二者の合一、そのエクスタシーは古くより芸術作品において表現の主題とされてきた。しかし意外なほど、優れた作品の中でその合一が果たされる機会は少ない。

アイルランド出身の詩人による、「テル・コナートゥス」という詩がある。ラテン語で「三たび試みて」という意味であるらしい。

酪農を営み、平凡な暮らしを60年間続けてきた姉弟がいる。ある日姉が背中の痛みを訴える。やがてそれは癌であることが判明するのだが、心配を表明するのに慣れていない不器用な弟は、手を貸そうとするも躊躇ってしまい、結局姉の身体を支えることができなかった。

あんまり痛いので、あえぎ、なんとか立ち上がって、
腰を抱え込んだ。「手を貸そうか」そう言って

弟は一歩あゆみよった。「だいじょうぶ」
姉は答えて、階段を手探りした。
三たび、そんなふうに、弟は手を差し伸べようとした。
だけど、そんなしぐさに慣れていなかったので、
三たびとも手は下ろされて元の位置に戻り、
そのまま脇から動かなかった。葬式のあと、
彼は何もしなくなった。(中略)
彼が思うのは、あの晩のこと。あのとき、
現実のものを影のように思い続けてきた
長年の習慣を断ち切って、
弟の腕で姉を抱きとめることができたのにと。

バーナード・オドナヒュー「テル・コナートゥス」道家英穂『死者との邂逅』所収、作品社、2015、p.315(訳は道家による)

訳者の道家によれば、この詩は『アエネーイス』の一節を踏まえているらしい。英雄アエネーアスが、死んだ妻の幽霊に出会い、「三たび」抱きしめようとするも「まるでかすかな風か羽の生えた夢のように」腕をすり抜けてしまう。
この三たびの抱擁の失敗が「テル・コナートゥス」でも繰り返されている(前傾書、p.6)。

やり切れなさと後悔、この複雑な悲しみの織物こそが解消し得ない隔たりをこの上なく見事に表現に結晶させる方途なのだろう。

たとえば思うのは、クリムトの言わずと知れた《接吻》について。

この絵を見るたび僕は、「この女性ちょっと嫌がってるようにみえるなぁ」と思っていた。
まぁ内心の話はさておき、重要なのはここで二者のベクトルが微妙にずれていることによる、接吻の果たされなさである。

ここで男女の接吻が完全に果たされている絵をクリムトが描いたとして、それがどのような作品になったのか想像してみる。そこには外部が存在せず、内的な秩序と完璧さに充足した幸福な作品が立ち現れてくるだろう。
しかしそのような作品には、昨日の日記にも書いたように、生に直接的関係する根が存在しなくなってしまう。やはり合一は果たされないからこそ、芸術はある種の普遍的経験としての隔たりを内包できるのだと思う。

道家によれば『アエネーイス』の抱擁の失敗というくだりは、ホメロスから拝借しているらしい。また、『アエネーイス』はダンテ『神曲』に影響を与え、そこでもまた果たされぬ抱擁が登場する。
ヘルダーリンがギリシャ悲劇の本質だと看破した「中間休止」も、合一を阻害するもの、統合の失敗を導くものとしてこの系譜に組み込むことができる。

絵画のプロセスは完璧な統合を目指し登攀する道行である。しかしそれもまた結局は登頂に成功する直前に頓挫し、滑落する。クリムトの《接吻》はまさにそう、自覚され意図的に組み込まれた統合の失敗であり、それゆえに傑作である。

とか、そんなことを思いながら16時頃に帰宅の途につきまた同じ場所を通ったら缶と瓶が引き離されていた。瓶の場所は変わっていないから、缶が蹴飛ばされたのだろう。

まさに悲劇。抱擁は今日も果たされないのであった。

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