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教壇は消えた。でも、プロフェッショナルは残る
高校時代、私たちはある先生を「紗英(さえ)」と呼んでいた。90年代に活躍した女優、一色紗英と苗字が同じだったからだ。でも、当然ながら美少女とはほど遠い。60歳の現代文の非常勤講師で、なぜかずっと教壇に立ち続ける先生だった。見た目はゆるキャラっぽく、声はやたら大きい。授業のたびに、その存在感をこれでもかと放っていた。
紗英は、かなりクセが強かった。語尾に必ず「よ」をつけて、強い口調を和らげようとしていたけれど、むしろ逆に怖かった。昔ながらの先生らしく、女子には甘く、男子には厳しい。でも、その授業は妙に印象に残っている。
例えば、森鴎外の「舞姫」。豊太郎がドイツ人の恋人エリスを妊娠させながらも、仕事を選んで彼女を見捨てた結果、エリスが発狂するという物語。高校生の私には、豊太郎はただのクズ男にしか見えなかった。そんな作品を紗英先生は全力で掘り下げ、クラスに問いかけてきた。
「きくちさんよ?豊太郎はエリスに何を望んだんよ!?」
「わかりません…」
本当は分かっていた。でも、進学校の進学クラスで「豊太郎がクズすぎる」とか「愛より仕事を選ぶなんてありえない!」なんて言うのは、ちょっと子どもっぽい気がして、答えなかった。先生は男子にも同じ質問をぶつけたが、男子も答えたくない。
「何でお前らはわからへんねん。豊太郎はエリスに俺の女になれ、お前が欲しいって言うとんねん。ほんまに純粋ぶりやがってよ!」
教室は静まり返った。誰も笑わない。でも、その沈黙の中で、私は気づいた。先生はただ授業をしているのではなく、物語を通じて、人間の本質とか感情のリアルさに向き合えって言いたかったんじゃないかと。
そんな紗英には、もうひとつ強烈なこだわりがあった。それが「教壇」。チャイム終了ぎりぎりで、誰かが教壇を駆け上がるたび、「教壇に上がるな!」「教壇を通るな!」と本気でブチ切れていた。時間ぎりぎりの駆け込みについては言及しない。その理由も、毎回同じだった。
「新人の先生がどんな気持ちで教壇に上がっているのか分かるかよ!」
「教育実習の大学生が、やっとの思いで教壇にあがる気持ちが分かるかよ!」
正直、当時の私は「いや、そんなに怒らんでも…」と思っていた。でも今なら分かる。紗英にとって、「教壇」はただの段差じゃなかった。教師としてのプライドそのものだったんだろう。
クセが強くて、ちょっと面倒くさい先生だったけれど、「教えること」に全力を注いでいたのは間違いない。
あれから20数年。私は親になり、授業参観で先生たちを見るたびに紗英を思い出す。
……でも、今の学校にはもう「教壇」なんてないんだよな。見なくなったもん。
時代の流れなのか、先生と生徒の距離を縮めるためなのか、あの「一段高い場所」はなくなった。もう「教壇に上がるな!」と怒鳴る先生もいない。
それは良い変化なのかもしれない。でも、教壇という場所にこだわり続けた紗英を思うと、ちょっとだけ寂しい気がする。プロフェッショナルとは何か。
それは、周囲からどう見られようと、己の仕事に誇りを持ち、信念を貫くこと。プロフェッショナルは心に残る。そして、記憶に刻まれる。
紗英先生の姿は、きっとこれからも、私の記憶の中に生き続ける。
—— 健在なら90歳くらいか。教壇が消えた今、彼は何に対して「上がるなよ!」と叫んでいるんだろう。