【研究】固有色について
バイト先の絵画教室のスラックで「固有色」に関するディスカッションが興ったのですが、下記の内容を何も見ずに電車の中でサーっと書けて、「あ、自分前より成長してる」ってなりました。
(ヴァザーリが素描アカデミーを作って絵画・彫刻・建築をまとめて捉える概念を発明するまで美術という概念は存在していないのでやや記述が緩いですが、まあそこは今回の主題ではないので)
ということで、自分の成長がなんか嬉しかったし、固有色についてこういう書き方をしてるものを見たことがない気がしたので、ここにも投稿してみます。
あと、サッと書いた割には論の構造が割とちゃんとしてるなとも思って、自分って「ところで」を使った三段論法とか自然にできるんだなってびっくりしました。
〜〜〜以下スラックへの自分の投稿〜〜〜
恐らくこの点については美学的な観点を導入するとスッキリ理解できると思います。
まず、ルネサンス以前に美術は「肉体的な労働」として理解されており、地位が低いものでした(西洋には「精神は尊く肉体は卑しい」という価値観があるため)。
それがルネサンスに入ると、美術家が知識人のパトロンに強力に庇護され、あるいはそのサークルと交流を持つことで、自身の仕事を「知的な営み」として理解し始めます。
すると、「肉体的な労働」であり低級なものとして考えられていた美術の地位を向上させようとして、美術家たちが美術の知的、理性的側面を強調するようになります。そうした美術家の代表がダヴィンチです。
このような美術の地位向上という美術家の悲願は、ヴァザーリによって設立されたアカデミーによって制度的に実現します。制度的というのは、美術は知的なものであり、それに携わる美術家は地位が高いということを国が保障したということです。ヴァザーリによるアカデミーの設立はイタリアでの出来事ですが、その後にフランスでもアカデミーが設立されます。
このような経緯でアカデミーができたので、アカデミーは美術の地位向上を至上命題としており、そのため、美術の知的、理性的側面を強調しました。その際に強調されたのが線描です。
その理屈は次のようなものです。
物の色は光の状況などによって移り変わるが、それは物の偶然的な要素であって本質ではない。物の本質は偶然性に左右されない形であり、それは理知的に理解されるものである。ところで、絵画における色彩は物の色に対応しており、線描は形に対応している。故に、美術の知的、理性的側面を強調するためには線描を重視すべきである。
そうした価値観においては、絵画における色彩は二次的なものであり、故に消極的な扱いをされており、また、状況に左右されない「固有色」という観念に則って用いられることになりました。
ここまでが西洋絵画史における固有色の強調の理屈です。
で、美術の地位が上がり切ると、今度は美術が感覚を喜ばせるものとして位置付けられようとします。ざっくり言えばそれがロココです。つまり、理性主義へと美術を振ることで地位を上げた後に、感性主義へと美術が振られたわけです。
で、ロココが参照していたのが、ルーベンスとヴェネツィア派です。これがGPTの言うヴァトー、ルーベンス、ヴェネツィア派です(グレコは例外的な存在なので考慮外)。
まとめると、理性主義は物の本質を捉えようとするので状況に左右されない固有色を重視し、完成主義は目を喜ばせようとしたり、感覚を重視するので、状況によって変化する色彩を(比較的)捉えようとします。
とはいえ、この振り幅は、強力な理性主義を軸にしたものなので、やはりマクロ視点で西洋美術は近代まで理性主義的であり、固有色重視と言えると思います。
それが、ロマン主義の辺りから、「個人の感じ方」が重視されることになります。そこで多様な表現が登場しますが、そのうちの一つがターナーと考えられます。
その後に、「個人の感じ方」であるところの「印象」をより前景化した印象派が「私にとっての見え」をより強調し、固有色の観念は相対化され、そうした理念が極端に強調されたモネの連作によって固有色の観念はトドメをさされた感じです。
以上、この話題で出てきたトピックを全てスッキリ理解するためのパースペクティブを提示できたかと思うのですがいかがでしょうか??
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