【研究】シリーズが展開すること
自分は作品の中で偏光顔料やラメをよく使います。
それらは〈void〉のコンセプトに与する効果(鑑賞者の移動を促す)を持っているので作品に用いられているわけですが、実はそれ以外の選択の理由もあります。つまり、作者である自分の欲望を単に満たすためです。
その欲望とは単に自分がキラキラしているものが好きだから使いたいとかいうようなものではなく(いや、それももちろんあるんですが…キラキラは正義)、作品の中にどうにかして色を導入したかったというものになります。
ところで、自分は作品の各要素をコンセプトに与するように選択したいと考えているのですが、そうすると作品はコンセプトに忠実になってはいくものの、場合によっては鑑賞時の悦びを損なう可能性があります。
例えば〈void〉は「水墨画を参照しそれを想起させるようにイメージを作る」という原則をコンセプトに組み込んでいるのですが(その原則を立てた理由については博論を読んでみてください)、その原則に忠実になると作品は水墨画の造形的な特徴の一つであるモノクロームとなるので、鑑賞時の悦びの一つである色による視覚的な快楽が損なわれてしまいます。
しかしながら、〈void〉のコンセプトからは、色を使うための「色相の選択の根拠」が自分には導き出せませんでした。色を使うなら何色を使うのかを選択しなくてはいけない訳ですが、そこに根拠を見つけることができなかったのです。
とはいえ視覚的な快楽のためにも色は使いたい。そうした矛盾の中で悩みました。
そこで自分が導き出した対策が、「構造色を示す物質を使う」でした。
構造色を示す物質は光があたる角度や見る位置によって色相が変化するため、特定の色相を用いる際に要求される意味や根拠を不要としたまま色を作品に導入することが可能となります。この止揚によって〈void〉はその作品体系の中に色を導入することが可能となりました。
さて、この「構造色を示す物質を使う」という対策は、それを行う前に想定していた自分の欲望を満たすという効果を超えた別の効果をシリーズに導入することになります。冒頭でも軽く触れた「鑑賞者の移動を促す」という効果です。それは単純に、構造色を示す物質は見る位置によって色相が変化するため、鑑賞者はその変化を感じようとして移動をすることになるということです。
ところで、〈void〉の作品はイメージを荒い網点で描写しています。それによって、離れて鑑賞するとイメージが見えるけど、近づいて鑑賞するとイメージが見えなくなるという視覚的な効果を作り、それで表現を行っています(表現の内容についてはこれまた博論を読んでみてください)。
そうした〈void〉ですが、そこに「鑑賞者の移動を促す」という先の効果が加わると、荒い網点による視覚的な効果がより生じやすくなることに気づきました。鑑賞者が積極的に動いてくれた方がイメージが見えたり見えなくなったりしやすいからです。
これは、コンセプトに与しないと思われた自分の個人的な欲望が、逆にコンセプトの表現を強化したような事態だと考えられます。
つまり、シリーズを展開させようとする意図とは関係ないところで、想定外の仕方でシリーズが展開したのです。
作品の制作する時というのは、自分の中に存在している複数の矛盾する欲望がそれぞれ「おれを満たせ」と主張してきます。それはコンセプトに忠実なものもあれば、今回の色を使いたいというようなコンセプトに抵触するものもあるでしょう。
そして大抵の場合、その矛盾は「取捨選択」によって解消されると思われます。なぜならば、矛盾するものというのは二者択一的な関係性にある訳で、そこには採用するものと不採用なものが生まれるからです。
しかしながら、このエッセイで書いたように、その矛盾する欲望を上手く止揚することができると(例えば色を使いたいがコンセプトに抵触する場合に構造色を備えた物質を使うというような)、予想外のかたちで作品やシリーズが展開する場合があるようです。
このエッセイではその作品展開のより細かい機序について分析することまでは行いませんが、そうした機序の片鱗を書き留めておこうと思い執筆してみました。
参考文献
菊池遼「鑑賞距離から考察する絵画の造形性 ──〈void〉シリーズの分析を中心に──」(博士論文)
菊池遼「コンセプトの表現と、そこに含まれる余剰について」
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