だってあれは美味しいじゃない
祖母は2022年の5月に亡くなった。92歳だった。
我が家は父が婿養子に入ったので、母方の祖父母と同居をしていた。
祖母にとって私は初孫で、実の母が満足に抱っこできないくらい可愛がられたそうだ。
祖母は晩年アルツハイマー型認知症を患い、亡くなる5年程前には施設に入居し、最後の数年はベッドに横たわったまま、さながら眠り姫のように過ごしていた。
毎日夢の中にいるような状態なのに、栄養がいいのだろう、染めなければ白かった髪の毛はグレーくらいまで黒くなり、肌もつやつやしていた。
体をさすりながら「おばあちゃんお肌つるつるだね」とほめると、咳をしたり口を動かしたりして反応してくれた。
そんな様子なのに、元々はすこぶる健康体だから、「今回は危ないかもしれない」と言われる度に、何度も回復してみせた。
祖母はいつしか家族の中で不死鳥と言われるようになった。
そしてとうとうお別れの時がきたわけだが、斎場で祖母の遺影を見た時、その眉毛の釣り上がり方に驚いた。
祖母は眉毛が薄く、眉炭で毎日眉毛を描いていたのだが、何年も化粧をしている祖母を見なかったので、祖母があんなに角度をつけた眉毛を描いていたなんて忘れてしまっていたのだ。
「おばあちゃんあんなに眉毛上げて描いてた?上げ過ぎじゃない?」と母に言うと、
「おばあちゃんの眉毛はあんなもんよ。ほら、燃える女だから。」と言われた。
そういえば、祖母は不死鳥であり、燃える女でもあったのだ。
燃えているのは、正義感である時もあれば、プライドやこだわりや生真面目さであることもあった。
そして実の娘である母とは度々喧嘩をしていた。
時に冷戦のように、時にぶつかり合い、二人は火花を照らしていた。
祖母と母の喧嘩といえば、私の中では毎年の年末のお節作りである。
祖母が元気な頃は二人で台所に立って、作る順番がどうとか、なんでそんな切り方にするんだとか、お節を作りながらなんだかんだ揉めていた。
私はというと、例年二人のお手伝いをしながら、それとなくバランスを取って二人に話しかけたりして、母の誕生日である大晦日がなるべく楽しい日になるようにと微力を尽くしていた。
祖母には祖母の流儀があり、母には母のそれがあった。
それはお節作りに限ったことではないけれど、もしかしたら家族を思ってお節を作る時には、普段よりも強く二人の理想の家庭像がぶつかりあっていたのかもしれない。
そうやって毎年毎年お節を作っていく中で、いつしか祖母は少しずつ気難しく怒りっぽくなっていった。
今思えば、アルツハイマーの症状が出始めていたのだろう。
本人も持て余しているのではないかという怒りを表すようになった。
家族も戸惑ったし、本人は本人で家族とは違った意味で困っていたのではないか。
祖母は少しずつ思うように料理ができなくなっていた。疲れやすくなったのに加えて、恐らく段取りを考えたりするのが難しくなっていったのだろう。
そして、いつかの時点で祖母はお節を作らなくなった。
そんな年の瀬、一人暮らしを始めていた私が実家に帰ると、やっぱり母と祖母は揉めていた。
あと何を作るのかの話をしていたと思うのだが、母が「今年はきんぴらごぼうは作らない」と言ったら、祖母は「どうして作らないのか」とすごく怒った。
母が「ごぼうは筑前煮にも入れるからもういい」と言うと、
祖母は苛立ちともどかしさとが混ざったような感じで、それはそれは残念そうに「だってあれは美味しいじゃない」と言った。
もちろん本人は真剣そのものなのだが、いやだからこそ、祖母の剣幕と怒っている内容の落差が滑稽に感じられて、なんだかおかしくなってしまった。
祖母が憤慨し、母が辟易している居間で、私はじんわり笑いを噛み殺しながら煮上がったがんもを保存用の器にうつしていた。
祖母は確かに甘塩っぱい味付けの物が好きだったが、そんなに残念がるほどきんぴらごぼうが好きだったのか。
いや、多分それだけではないのだ。祖母は安心したかったのではないか。いつものお節がいつものように並ぶお正月に。
そんなふうに育ったから、私は夫と二人のお正月のために毎年せっせとささやかなお節を作る。
そしてその度に、実家でのお節作りを思い出す。
我が家のお節は品数を絞っているから、黒豆は買ってきてしまうし、人参も里芋も椎茸も別々には煮ないし、残念ながらきんぴらごぼうも登場しないのだけど。
「だってあれは美味しいじゃない。」
そうだよね、美味しいよね。
そういえば、最近は自然な感じで自眉を生かした眉毛が流行ってるみたいだよ。
って言っても、きっと描き方変えたりしないよね。
だって燃える女だもんね。