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恋人の夜 家族の朝

以前、職場の上司が「朝は必ずカミさんとコーヒーを飲むんだ」と言ったことがあった。

夜は自分が帰った時には先に寝ていることもあるけど、朝は自分が出掛ける時には必ず起きてくるから、自分が2人分のコーヒーを淹れるようにしているんだ、と。

話を聞きながら、太陽に照らされたリビングを思い浮かべた。
そこには朝の光がうつし出す赤裸々な生活があり、それはすなわち歴史であると共にこれからも続く未来で、そのテーブルを囲むことが家族であることなのではないかと思った。

夜の魔法がない世界。
それは後ろ暗いことがない正々堂々といられる証のようで、なんだか眩しいと思った。

夫がまだ恋人になる前。
私たちが会うのは決まって夜だった。

夜の公園。
夜のスーパー。
夜の本屋。
夜のお散歩を理由もなくした。

私が当時住んでいた家の近くには、半分山みたいな大きな公園があったので、私の家まで約束もないのにやってきたまだ恋人でもないその人と私は、その公園を目指して夜の散歩をすることが多かった。
公園の入り口は街灯があって明るいけれど、上り坂になっている道を中へ中へと進んでいくと、その奥は暗く、先が見通せない曲がり道になっていた。
もちろん曲がりくねった先にも灯りはついているはずだけど、私たちの方からは見えないから、ぽっかり口を開けた闇に繋がっているようだった。

私は実家にいる間は夜ふらっと出掛けることをしてこなかったから、晩御飯を食べた後にお外に出るなんて、それだけで特別なことをしているような気がした。
夏休みに近所の公園でやっている盆踊りに行く夕方や、花火大会の日みたいに。

こんなことをしていていいのかな、と思っていた。

なんで私たちは夜のお散歩を繰り返しているのか、と。

それは決定打がほしかったということではない。
決定したくなかったのだ。

その話を何度も夜の公園でしたはずなのに、私には結局散歩を断る術がなかった。

かつて恋人になってくれた人たちとも、深い話が出来るのは帰る間際になってからだった。

お日様がさんさんと光っている昼間からあれだけ時間があったというのに、肝心なことを言えるのは暗い夜がやってきてからで、エンジンがかかるのが遅いと言えばそれまでだけど、やっと調子が出てきたと思ったらもうお別れの時間、ということが多かったように思う。
多分、夜の力を借りないと言えないことが多すぎたんだ。

自分を良く見せようとしていた。
自分で自分を受け入れてられていなかった。
だから、相手にも本当の気持ちが言えなかった。

夫とは最初から暗闇の中で会っていたからなのか、夫が多少魔法が使えるタチだったのかわからないけど、なぜだか本音を言いやすかったような気がする。
ドロドロした醜い自分も、子供のような無邪気な自分も心の中で同居させながら、そしてそれを表現しながら、2人でいることが出来た。
だから私は夫を離せなかった。

私たちは今や家族になって、日々生活の真ん中にいる。
忙しい朝の甘さゼロの短い会話は、何度も夜を越えてきた私たちの勲章ではないだろうか。
私たちも、歴史とそれに続く未来を生きているんだ。

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