【日記】旧山手通りと、寂しさ
おしゃれな旧山手通りを散歩したときに、ふと感じた寂しさを考察しました。
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先日、久しぶりに長い散歩をした。まだ涼しい朝の6時半に集合し、僕らは行く当てもなく都心へと向かった。半分くらい眠ぼけている都心の真ん中、日比谷公園のベンチにひとしきり座った。蝉が鳴いていた。並んでいるベンチには、朝の散歩をしている中年の男性が点々と座っていた。それから僕らは代々木上原に行って、ふらふらと午前中の東京を放浪した。
11時ごろ、僕たちは旧山手通りを歩いていた。そろそろ街は過熱の兆しを見せ始めていたし、どこか涼しい場所に入る必要があった。だから代官山の蔦屋書店を目指そうと思い、駒場東大のほうから通りを歩いた。
通りの名前は旧山手通りと言うようだった。結婚式場やバプティストチャーチが左右に現れたかと思うと、見たこともないような豪勢な店が並ぶ。それらの建物に共通しているのは、現実が向ける埃や、人間の手あかを徹底的に落そうという心意気があるということだ。例えばカスタード色のビルに装着されている、ロイヤルブルーのひさしが僕らに沈黙を投げかけている。
この沈黙を見た時、僕は「寂しい」と感じた。そしてこの寂しさはけっこう本物であるように思える。なぜなら、この寂しさを思い返そうとすると、見たくないものを見ているときと同じ気分になるからだ。それは好きだった人にぎこちなく話しかけた記憶のように、まっすぐ見つめるのが難しい。
今になって思うのは、手に入れられるはずがないものに対して憧れてしまうことが、この寂しさの一番の理由かもしれない。ある美しいものが自分には手に入れることのできないと分かってはじめて、僕は憧れる。昔から憧れていたものが現実では手に入らなかったという結果に落胆しているのではない。そうではなくて、初めにそれが手に入らないという事実に触れて、それによって僕は憧れる気持ちを持ちはじめる。この憧れが湧き出してくるにつれて、直視したくない類の寂しさも増していく。順番は僕がふだん思っているのとは少し違っているように思える。
では、この時にどういう憧れを持っているのだろうか。それは先ほども述べた通り、人間の醜さを、焼き菓子を作る時の気泡のように一つひとつ丁寧に潰していく姿勢への憧れである。僕は、そうした自然から見たら奇妙な人工物の一員になりたいと思ってしまう。できることなら、その人工物の中に幽閉されてしまいたいという誘惑を感じる。これは奇妙に聞こえるかもしれない。でも、あの水平に手入れされた生垣の一部になりたいと思うのは、果たしてそこまで奇妙な思いなのか?ある本に書いてあった。「せつない憧れがなければ芸術はできない」。
この憧れは、別の日にロダンの「地獄の門」を見た時にも思った。僕は、僕自身が「地獄の門を見る男」としてブロンズ像になってしまえたらなと思った。そしたらどんなに素敵だろうかと。誰でも、少しくらいはこのように考えるのではないだろうか?美に近づいていって、その一部になりたいと思うのは人間の欲望のスイッチの一つではないだろうか?
しかし、この誘惑や欲望は危険の兆候なのかもしれない。おそらくこの憧れは、フロイトが言う「死の欲動」だったり、リルケの「胎児に戻る」ような表現だったりに重なる部分がある。僕が美に近づいてたじろぐ時、僕の憧れは固定的なもの、有機的でないものになりたいという向きを見ている。少し前に書いた「概念が芸術に見える」というものも、無機質に固まった概念というものを、それ自体芸術として捉えているのだ。
そう考えると、僕がロイヤルブルーのひさしを見て感じた「寂しさ」という思いが重要性を帯びてくる。もう一度確認すると、この寂しさは、手に入らないものに持ってしまう誘惑や欲望が不可能で、そちらに人間(僕)が向かうことができないということに対する切ない思いが結晶している。このときに「寂しさ」は、踏み越えてはならない境目を知らせているのではないかと思う。この寂しさを「僕は寂しがっている」と自分で気づくことによって、そちら側に踏み越えてしまおうとする非人間的な振る舞いを規制する働きがあるのではないか。
旧山手通りを見た僕は寂しくなった。旧山手通りそのものが寂しげなのではないと思う。