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読書の、ひとつの終わり(日記)
最近、ほとんど本を読んでいない。そのため、文章もあまり書いていない。どうしてか、以前まで読めていた本たちが、急に読めなくなった。せっかく旅先で買ってきた本も、はじめの3行で止まった。一体どうしたのだろう。
最後に何を読んでいたか
最後の辺りで、森岡正博さんの本をまとめて読んでいたことを覚えている。順に『宗教なき時代を生きるために』『無痛文明論』『感じない男』『草食系男子の恋愛学』。最後に読んだのは『生命学に何ができるか』で、男性と避妊に関する箇所だった。以下のブログ記事を読んでいて、これの完全版が収録されているとのことだったからだ。
森岡さんの本を読んでいて感じるのは、「これが(哲学に、学問に)求めていた内容だ」という強い感動のようなものだ。彼が「生命学」というものを説明していくうちに、自分がこれまで思想や理論の本に求めていたものが、この言葉に繋がっていくという感覚を持った。小説を読んでいるとたまに「ああ、この内容をよく言葉にしてくれたな」という表現に出会うことがあるが、まさに同様の現象だった。まったく間抜けなことに「生命学」の詳しい中身は覚えていないのだが、とにかくそこからは、強い肯定感のようなものを受け取った。
それから
ここで感じるのは、僕はこれらの本によって「リベラルアーツ」を終わらせたのではないだろうか?ということだ。分かりやすいので、東京大学で例えてみる。僕も詳しくはないが、東京大学は、1,2年生が「教養科目」を学び、3年生に進級するときに、自分の専門を選ぶそうだ。それで、僕が言いたいのは、東京大学で1,2年生に相当する「リベラルアーツ」を、僕は「生命学」という考え方を知ることで終わらせたのではないかということだ。
もしかすると「終わらせた」という言い方は良くないのかもしれない。むしろ「これ以上深堀りする気力を失った」とか、「これ以上掘っても、生命学以上のものは見つからない」とかの表現のほうがしっくりくるかもしれない。よく、ある人にとって生きる意味をつくっている世界観を「実存」と表現するが、僕は生命学に接近することで「実存」がある程度固まったのではないだろうか。(不思議なことに、生命学の内容も、自分の実存それ自体について言葉にすることがまだできなくても。固まったのではないか、という漠然とした直観だけがある)
***
最近はどんな感じ?
前段のように、僕が自分の「リベラルアーツ」を一通り終えたとしてみる。それでは、僕の「専門」は何になるのだろうか?いや、専門という言い方はあまり良くない気がする。要するに、どういうことをやっていくのだろうか、ということだ。
これも、最近チェックしている本をもとに考えてみる。
僕は最近、ビジュアル的な本を手に取るようになった。東京藝術大学の学園祭に出掛けた際は『世界の植物図鑑』を買い、図書館では『星野道夫の仕事』の写真集を借りた。行く書店も、代官山の蔦屋書店だったり、Books and Sonsだったり、Dessinだったり。なにか、テキストを読むというよりは、視覚情報をダイレクトに受け取るものに興味が変わっているようだ。じっさい、今はアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集や『Take Ivy』などファッション写真集、オディロン・ルドンの画集などが欲しい。
好みがこういう感じになっている理由としては、僕がイラストや絵を本格的に描くようになったからという点が大きい。こうしたビジュアル・ブックは、単純に資料として重要になってくる。さらに言えば、僕は絵を描く際、実物を自分の中に落とし込みながら描く傾向が強いので(つまり、そんなに写実的に描くことができないので)、なるべく写真集のほうがありがたい。
すると、短絡的に考えるのも良くないけれど、僕はさしあたり、「イラストや絵を描く」ことに情熱を注いでいるということになる。つまり僕は、「リベラルアーツ」とか「実存」とかいった季節を抜けて、「ビジュアル」という季節に突入している。イラストや絵を描くということをやっていこうとしている。どうもそういうことらしい。
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ここまできて
初めの問いへの答えが分かってくるように思える。本を読まなく、あるいは読めなくなったのは、「実存」に基づいた読書を止めたからではないだろうか。そして僕は、「専門」とまではいかないけれど、「イラストや絵を描く」ということを当面の方向性として持っている。こういうことが分かった。
そういえば、高校で本を読み漁りはじめてからずっと思っていたのは、「自分がシンクロできない本はまったく読めない」ということだ。これは僕が「実存」に基づいた読書をしていたからなのだろう。そういう「実存」の読書にひと段落がついたのが、今の僕なのだと思う。(以上)