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恋を知らない

[1] 恋を知らない


 ―――俺は恋をしたことがない。

 ふとそんなことに気づいた。

 それもこんな最悪の場所で。

 薄暗く狭い室内に満ちるのは、熱気と男の汗の匂い――俺のじゃない大人の。

 ドアの対面の奥側に置かれた椅子に腰かけた俺は、眼の前に座ったスーツ姿の図体のデカい男――広保(ひろやす)に尋問されている最中だった。

 ふと落とした視線の先、刑事が持参した鏡みたいに磨き込まれたシガレットケースに映る自分の顔が見えた。

 繊細な顔立ち、一重の切れ長の眼、小さな鼻、薄い唇――子供の頃はよく女の子に間違われたこと思い出す。

 少し伸びた黒髪は櫛を入れてないのでボサボサで野暮ったい。

 しかも借り物のジャージのせいで、最高にダサい恰好だ。

 加えて唇の端が切れて頬にも痣があるから、まるでケンカに負けた野良猫みたいだ。

 それだけではなく、こうして蓮波(はすなみ)署の刑事に逮捕されて取り調べを受けている身の上を思えば『負けた』っていうより、『詰んだ』って気がする。

「――聞いているのか、灰羽璃空(かいね・りく)」

 いきなりフルネームで呼ばれて、思わずハッとして視線を戻した。

 巨漢ながら人懐っこい顔立ちの男が、大型犬みたいな優しげな眼で俺を見ている。

「聞いてなかった……もういっぺん言って」

 正直に話すと、さして気にした風もなく頷かれた。

「……釈放だよ」

「え――」

 ―――そんなはずないだろ。

 昨日の朝、蓮波区の倉庫街で『ブレンド・ラッシュ』や『サボテン』の製造工場が一斉捜索を受けた。

 現場にいたのは男女合わせて八名の若者たち。

 彼らは半グレ売人で、中でもリーダー格が――。

「……俺、あいつらのまとめ役だったんだぞ」

「そうなのか? 他の奴らはそうは言ってない」

「『そうは言ってない』? どういうことだよ」

 とにかく――と、男は半ば諦めに似たため息をつき、机に置いたシガレットケースをポケットに収めた。

「お前さんは釈放だ。家に帰っていいよ」

「……家って――」

 ―――家なんか、ないだろ。

 半ば呆然としつつ心の中で言い返す。

 一斉捜索に先駆けて、前日に根城にしていたマンションが刑事たちによって家宅捜索された。

 そのときに逮捕された仲間のひとりが住んでいた部屋に居候していたから……。

「俺、帰るトコなんてないんだけど」

「そうなのか」

 俺の拗ねた物言いに、広保は同情してくれたらしい。

 困ったような面持ちになった。

「親戚とか、友人は?」

 こう訊きながら立ち上がった広保は、俺の腰縄と手錠を外してくれた。

 手首をさすりながら言い返す。

「いないよ、そんなの。ダチはアンタらが全員逮捕したじゃんか」

「そうだな」

 こう返した広保の眉が困り果てたみたいに下がる。

 そんな顔をされると、本当のことを言っただけなのになんだか気の毒な気がしてきた。

「……いいよ。公園で野宿でもするし」

 そっけなく言って席を立つ。

 連れ立って廊下に出たあとで、広保が向きなおって廊下の先を指さした。

 少し先の突き当たりに鉄格子の嵌った窓がある。

 灰色の雲の隙間を埋める絹糸みたいな雨が見えた。

「さっき雨が降りだした。いくら8月でも身体に悪いぞ」

 そう言った心配そうな広保の顔をまじまじと見てしまった。

 逮捕された半グレ売人の心配するなんて……親切だよな。

 帰るトコもない。

 家族もいない。

 ダチもいない。

 ついでにこれが最も死活問題だが――。

「……金がない」

 ぽつりと呟いたとき、なにを思ったのか広保がポケットから財布を出して千円札を数枚取り出した。

「なにやってんの、刑事さん」

「これで足りるか?」

「いやいやいや。そうじゃなくて!」

 俺は慌てて広保の手を押し返す。

 一方で、柄にもなく少しだけくすぐったいような、胸が熱くなるみたいな変な気持ちになった。

 ―――この人、本当に親切なんだろうな。

 子供の頃に、こういう人に会えてたら……少しは。

 ―――『少しは』? なに考えてんだよ。

 自分で自分にツッコミを入れつつ口を開く。

「それしまってよ。それより――」

 首を傾げる広保のポケットから、先ほどのシガレットケースを引っ張り出した。

「あ。おい、それは――」

「こいつを俺にくれよ」

「……それは上司の持ち物なんだが」

「じゃあ、さっきのお金で弁償したら」

 勝手な言い分なのは百も承知。

 けれど、俺は会って間もない相手の心配をするこの巨漢の刑事なら『否』とは言うまいと思っていた。

「……仕方ないな」

 ―――ホラ、予想どおり。

「広保さん、優しいな」

「優しいんじゃない。気が弱いんだ」

 などと言い合いながら、俺は2階の取調室から巨漢の刑事に案内され、1階の受付で手続きを済ませた。

 所持品も返してくれたので、更衣室で自前の黒Tシャツとカーキ色のカーゴパンツに着替えた。

 待っていてくれた広保にジャージを返したあと、そのまま玄関ホールまで見送ってくれた。

「……じゃあ、気をつけて」

「うん、またね。広保さん」

「『またね』は余計だ。二度とここに来るんじゃない」

 ここだけは警察官らしい物言いで、巨漢の刑事は少しだけ表情を引き締めてみせる。

「……努力してみる」

 とりあえずそう返し、ホールを抜けてガラス張りのドアを抜けようとしたときだ。

 今しも駐車場に入ってきた黒塗りの外国産車輛が、こちらに向かってくるのが眼に入った。

 無意識にドアの手前で足が止まる。

 その間に運転席から降り立った長身の男が、無駄のない所作で素早く後部座席のドアを開けた。

 いつのまにか現れた制服警察官が車輛の一方に立ち、反対側にはスーツ姿の堂々たる巨漢らが並ぶ。

 そんな中、後部座席らか初老の男がゆっくりと降り立った。

 背はさほど高くない。

 中肉中背の身を包むのは渋い色合いの絽の着物で、羽織った丹前も相まって時代劇の隠居と知った風情だが――眼が違う。

 ともすれば柔和な面差しながら、獲物を前にした肉食獣を思わせる鋭い眼光だ。

 眼が合った瞬間、ゾクリと背筋に悪寒が走った。

 両脇を男たちに守られながら、和装の男は悠々と玄関前の石段を登ってきた。

 ガラス戸を挟んで向き合った頃合いで、背後からの「灰羽、どうした?」と広保の声を聞いた。

 ドアを開けたのは誰なのかわからない。

 気がつくと恐ろしいほどに無感情な眼差しが俺を見下ろしていた。

「――璃空、帰るぞ」

 錆ついたような、ざらついた低い声だ。

 この男に名を呼ばれる日が来るとは思いもしなかった。

 だが、それは心の中にくすぶる怒りの炎に油を注ぐようなものだ。

 背筋にゾクッと悪寒が走ると同時に、腹の底からふつふつと怒りが沸き上がる。

「……なにしに来やがった」

「迎えに来たのだ」

「ふざけんなよっ……!!」

 ロビーに怒声が響き渡る。

「璃空さん、ここは抑えて」

 そう声をかけたのは右側の男。

 整った顔立ちながら氷のような無表情で、年齢は30代そこそこに見える。

 男らしいキリッとした眉の下、切れ長の眼元が印象的で、口元は口角がわずかに上がっている。

 ピシッと整えた短髪、上等なスーツはブランドものだ。

 名前を呼ばれたものの――知らない顔だ。

 ―――気安く呼ぶんじゃねぇ。

 危うくキレかけたときだ。

 先の初老の男が口を開いた。

「親にその口の利き方はないだろう、璃空」

『親』の一語を訊くなり、怒りが頂点に達した。

「うるせえ! お前なんか親父でもなんでもねぇよ。お前のところなんかに誰が行くか……!!」

 気がついたときには、制止するスーツの男どもと広保を振り切って――廊下を全速力で走っていた。



 どこをどう走ったのかわからない。

 足がもつれて転びかけて伸ばした手が、車のボンネットに触れて――あまりの冷たさにハッとした。

 激昂したあとに冷静さが戻ってくると、虚しいような寂しいような頼りない気分になった。

 あらためて周囲を見渡してみる。

 どうやらここは地下駐車場らしい。

 見たこともない特殊車両に交じって、覆面パトカーが何台も停まっている。

 むき出しのコンクリートの壁と天井、太い支柱の連なりが見渡す視界を埋めている。

 想像以上に広い上に、隠れる場所もありそうだ。

 もっとも警察署内を全力疾走したのだから、いずれ行方を捜索しているはずの警察官にみつかってしまうだろう。

 だが、少なくともあの男の手下は、この建物内部を自由に出入りできないはずだ。

 だから、奴らに捕まる心配はない……今のところは。

 そう思いながら、手近な車両の陰に隠れ、屈んだまま両腕で膝を抱えた。

 ―――まさか。あいつが来るなんて……。

 予想外だった。

 これまで一度しか接触したことがないというのに、今さら親父ヅラとは――ふざけるにもほどがある。

 だが――。

 ―――これからどうする?

 ここにいつまでも隠れてはいられない。

 いずれ誰かに見つかったとして、あの男に引き渡されてしまうのだとしたら。

 それだけは避けたい……絶対に。

「……帰るトコなんて、ない」

 ぽつりと言葉が口をついて出た。

 一緒に捕まった仲間は、友人というよりは共通の楽しみ――『ブレンド・ラッシュ』を通じて似た者同士が寄り集まっていたにすぎない。

 つまり――。

 帰る場所はおろか、自分を待つ人間すら――いない。

 この世界のどこにも……俺が戻る場所なんて『ない』。

 ズキリと胸の奥が軋んだ気がする。

 ―――平気だ。

 そう自分に言い聞かせる。

 これまでだってひとりで生きてきた。

 孤独なんて日常の一部だった。

 仲間とつるんでいたのだって、『ブレンド・ラッシュ』とセックスのためだ。

『――それは恋人とは違うのか?』

 不意に広保の問いが脳裏に蘇った。

 あれは仲間同士で『ブレンド・ラッシュ』をキメて、セックスする話に聴取の内容が及んだときだった。

 俺は『違う』と答えた。

 ただクスリをキメて、気が向いたときだけヤるだけのドライな関係でしかない。

 恋人ではなかった。

 そのときに思ったのだ。

『俺は恋をしたことがない』と。

 きっとこの先も――。

 不意に辺りが暗くなったと思ったら、誰かが眼の前に現れたみたいだった。

「――よお、野良猫。ここにいたか」

 低いがよく通る声がした。

 顔を上げた俺の眼に、すらりとした長身の男が映った。

 きちんと整えられた短髪、通った鼻筋、厚すぎず薄すぎずの唇――銀縁眼鏡をかけた端正な顔立ちの麗容の主だ。

 仕立てのいいスーツと清潔そうな外見から、弁護士か商社マンといったところか。

 それでいてきついまなじりの鋭い眼つきと隙のない物腰、身にまとう威圧的な雰囲気がどこか異質な印象だ。

 そんな男が俺を見下ろして愉しげに眼を細めたとき、何故か心臓がドキリと高鳴った。

 ニヤリと笑みを浮かべただけなのに、どこか眼を離せない磁力を持っている気がした。

「……行くところがないんだってな。なんだったら俺が拾ってやろうか、野良猫?」

「……アンタ……誰?」

「名前は吉良学(きら・まなぶ)だ」

「あいつの手下?」

 見たところ刑事っぽくないし、眼つきの鋭さとどこか威圧的な気配から察するにあの男の手下だとしてもおかしくない気がする。

 ところが警戒する俺を見つめたまま、男は苦笑気味に首を振ってみせた。

「あいつってのは祿郎(ろくろう)さんのことか? 先代組長には丁重にお引き取りいただいたよ」

 男の穏やかな物言いに嘘は感じられない。

 俺はホッと息を吐きだした。

「――で、さっきの話だがどうする?」

「え?」

「俺がお前を拾ってやろうか?」

「……それ、どういう意味だよ?」

 吉良は答えずに手を差し出した。

 以前なら、知らない奴の手は躊躇いなく振り払ってきた。

 それなのに――。

 気がつくと、男の手をつかんで立ち上がっていた。

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